小倉藩小笠原家京屋敷跡

マーカーは小倉藩小笠原家京屋敷跡です。

[豊前国小倉藩の第9代藩主小笠原忠幹は、万延元年(1860年)11月6日、本家の小倉藩主・小笠原忠嘉の死去により、末期養子として家督を相続し、小倉藩主となった。文久3年(1863年)、14代将軍・徳川家茂上洛したときは、その警護を務めている。第二次長州征伐中の慶応元年(1865年)、39歳で死去した。小倉藩は次男の忠忱が継いだが、忠忱が幼少のため、忠幹の喪は秘された。死去が公にされたのは、小倉城を自焼し、藩庁を田川郡香春に移した後の慶応3年(1867年)だった。  (wikipedia・小笠原忠幹より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央右上・富小路竹屋町通下ルに小倉と記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央右上・夷川通、竹屋町通、富小路、柳馬場通枠内に小笠原ヤシキが描かれています。)

カメラ位置は竹屋町通/富小路交差点で、カメラ南西方向が小倉藩小笠原家京屋敷跡に建つと思われる京都市立御所南小学校です。