尾張藩錦小路屋敷跡

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尾張藩錦小路屋敷
[貞享 2 年(1685)成立の『京羽二重』巻 5・「諸大名御屋敷所付」には、「尾張中納言様」があげられ、「御用屋敷 錦小路室町西へ入町」と記されている。よって、遅くとも 17 世紀後期には、京の市街地のなかに邸宅をおいていたことが知られる。京都町奉行所が中心となって、享保 2 年(1717)のうちにおおよそ作成されたと推定されている『京都御役所向大概覚書』 1 ・「「五十一」 京都大名屋舗・拝領地幷買得屋舗之事」においては、「一、錦小路通新町東江入町 尾張殿/買得茶屋長曾名代」(斜線は改行をあらわす)というふうに書きつづられるにいたっている。文化 5 年(1808) 5 月の「天神山町絵図」に目を転じるに、それには錦小路通の北に沿って、室町通を西に入ったところに尾張藩邸が記されている。くわえて、それぞれの辺には、「表口 九間六寸」「裏行 拾七間三尺八寸」というように長さが付され、かつ「茶屋長意借家/当時尾張殿屋舗」という書き込みが認められる。尾張藩邸のひろさについては、それぞれの長さをもとに計算してみると、450 ㎡弱、135坪くらいの数値をえる。つまるところ、洛中において尾張藩は、さようにせまい屋敷しかもちえてはいなかった点が確かめられよう。
徳川慶勝は、文久 3 年(1863)正月 8 日に入京し、縁戚にあたる近衛家の河原御殿(中京区末丸町)に止宿した。その際,扈従していた藩士などは、妙顕寺(上京区妙顕寺前町)や東福寺(東山区本町15丁目)を宿所としたことが知られる。
 もちろん、それら大きな寺院に供奉の人びとが入ったのは、小さい錦小路屋敷などではとても収容しきれなかったからであろう。つまるところ、慶勝の上京を機縁にして、既設の藩邸などのせまさが問題視され、その結果、ひろい土地を買いあげて屋敷をもうけようとする方針が固まったのではなかろうか。  (「土佐藩白川邸・尾張藩吉田邸にまつわる覚書」より)]

[藩邸の廃止 – 元名古屋藩(尾張藩)の藩邸に関しては、新町蛸薬師下ルと錦小路室町西入ルの二ヶ所になっていた。つまり、吉田にあった藩邸を、元名古屋藩(尾張藩)は明治5年までにおそらく売却していたのであろう。
 尾張藩屋敷に関する後藤真一氏の論攷によると、錦小路の屋敷は、明治3年(1870)年に廃止されるまで継続し、そこには「京都買物奉行」という役職が置かれていた。幕末に創出された吉田の藩邸に関しては、後藤氏は「徳川家御住居沿革調書」をもとに、明治4(1871)年に処分されていると述べている。  (「藩邸 – 国土地理協会」より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図中央付近・錦小路上、室町通と新町通の間に、徳川と尾張ヤシキが記述され、新町蛸薬師下ルと錦小路室町西入ルの二ヶ所屋敷地は接続していると思われます。)

カメラ位置は錦小路/新町通交差点で、カメラ北東方向が尾張藩錦小路屋敷跡になると思われます。