岩国藩吉川家京屋敷跡

マーカーは岩国藩吉川家京屋敷跡です。

岩国藩
[岩国藩長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず、吉川家毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。
幕末にあっては、三士と呼ばれる東沢瀉栗栖天山南部五竹の尊王活動はあったが、藩自体は佐幕的態度を示していた。元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)にかけての2度にわたる長州征討に際しては、第12代当主・吉川経幹が長州藩と幕府の間に立って周旋を行い、幕府方の派兵の延期を取り付けたものの、高杉晋作などのようにこれを宗家である長州藩への背信行為と見なした長州藩士もおり、この戦争で功績のあった清末藩に岩国領を加増すればよいとまで言われた。しかし四境戦争においては芸州口で幕府軍と交戦し、これを撃破することに貢献した。
経幹は慶応3年(1867年)3月20日に死去するが、毛利敬親の命令でその死が隠された。大政奉還後の慶応4年(1868年)3月13日、新政府によって岩国藩は独立した藩として正式に認められた。経幹は生存しているものとして城主格兼正式な藩主として認められ、岩国藩初代藩主となった。経幹は明治元年12月28日(1869年2月9日)に長男の経健に家督を譲って隠居した形となった。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により岩国県となり、同年11月15日に山口県に編入された。  (wikipedia・岩国藩より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図四つ切右下・鴨川右、白川上に宇土と記述されています。)

カメラ位置は河原町通/姉小路通交点で、カメラ南東方向が岩国藩吉川家京屋敷跡になると思います。