弘文院址碑

マーカーは弘文院址碑です。

弘文院址碑
[弘文院は,平安時代初期に和気氏によって開かれた大学別曹である。和気清麻呂(733~799)の長子和気広世(生没年未詳)が,延暦年間(782~806)に大学別当になり,父の志を継いで大学南辺の私宅を弘文院とした。内外の経書数千巻を蔵し,墾田40町をその財源とした。大学別曹の中で最古のものと位置づけられるが,和気氏の衰微とともに廃滅した。この石標はその跡を示すものである。
所在地 中京区御池通千本東入北側
位置座標 北緯35度00分39.5秒/東経135度44分40.9秒(世界測地系)
建立年 1917年
建立者 京都市教育会
寸 法 高132×19×奥行19cm
碑 文
[南]
此附近 弘文院址
[東]
昭和三年六月 京都史蹟会引継
[西]
大正六年三月建之 京都市教育会
調 査 2002年2月4日  (「NA023 弘文院址 – 京都市」より)]

カメラ北北西方向・金網フェンス右に弘文院址碑があります。

弘文院
[弘文院(こうぶんいん)は、平安時代初期の平安京に和気広世が建てたとされる施設。通説では和気氏の大学別曹として機能したとされているが、異論もある(後述)。早い時期に断絶した。
日本後紀』にある広世の父・和気清麻呂の薨条[延暦18年2月乙未(21日)条]に、広世が式部少輔と大学別当(大学頭)を兼務し、父・清麻呂の遺志を継いで大学寮の南側にあった私邸を弘文院として内外の経書数千巻を集め、また墾田40町を寄付して学問料を支給したと記されている。弘文院設立の時期は『日本後紀』の散逸などにより不明であるが、広世に関する他の記事から延暦年間末期から大同年間初頭(大同元年は806年)の設立と推定されている。『日本後紀』に記された弘文院の役割は他の大学別曹の例と同様ではあるが、設立そのものが文章院や他の大学別曹に対して幾分か早くかつ記録がほとんど残されていないために、設立当初から後世の大学別曹と同じ目的を担っていたかについては不明である。
これについて、桃裕行は遅くても弘仁承和年間に勧学院学館院が創立されるに及んで、和気氏の大学別曹として確立したものと推測している。これに対して久木幸男は、「内外の経書」という記述に注目して「内外」を仏教書とそれ以外の書と解釈[3]し、表向き仏教を排除している日本の大学寮の学生のための機関である大学別曹に仏教書を置くことの矛盾を指摘しており、弘文館を大学別曹ではなく芸亭などのような図書館であったと推測している。
ただし、和気氏そのものが広世の没後に振るわなかった事もあり、程なく衰微していったと考えられている。『続日本後紀嘉祥元年7月丙戌(29日)条(848年8月31日)に平安京内で落雷があり破損した建物の中に弘文院が含まれていること、仁和元年(885年)に菅原道真が弘文院を訪問した時に詠んだとされる漢詩(「秋夜宿弘文院」)が『菅家文章』に残されていることから、少なくても弘文院設置から80年間は存在していたものと考えられている。だが、10世紀中期に書かれたと考えられている源高明の『西宮記』には弘文院は既に荒廃に帰している事が記されていることから、道真の時代からそれ程時間を置かずに廃絶したと考えられている。  (wikipedia・弘文院より)]

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