彦根藩邸跡碑

マーカーは彦根藩邸跡碑です。


明治維新、京都の諸藩邸はどこに消えてしまったんだろう …」よりのコピーです。上のマイマップはこのコピー図を描いてみました。

[彦根藩井伊家は幕閣の中枢を成し、酒井雅楽頭家本多家など譜代有力大名が転封を繰り返す中、一度の転封もなく石高も譜代大名中最高であった。江戸城内の伺候席会津松平家高松松平家と共に将軍の執務空間である「奥」に最も近く、臣下に与えられた最高の席であった「溜間」である。また、直興直幸直亮直弼と4代5度の大老職(直興が2度就任。直孝・直澄が大老になったかどうかは諸説ある。)に就いた。文字通り譜代筆頭と言えよう。
歴代藩主の中で最も有名なのが、幕末に藩主となった直弼である。嘉永3年(1850年)、兄直亮の死去により藩主となった。13代将軍徳川家定将軍継嗣問題南紀派に属し、一橋慶喜一橋派と対立し徳川家茂の14代将軍就任に貢献する。安政5年(1858年)に大老に就き、勅許を得ず日米修好通商条約に調印、これを口実として詰問に出た旧一橋派要人を隠居させ、併せて言論人への死罪等を含む安政の大獄といわれる強権の発動を行った。結果、反発を招き、万延元年(1860年)に桜田門外の変水戸藩浪士らに暗殺された。同年、藩主に就いた次男の直憲は、文久2年(1862年)に直弼の罪を問われ10万石を減封された。
元治元年(1864年)、禁門の変での功により旧領のうち3万石を回復する。また天誅組の変天狗党の乱長州征討にも参戦し、幕府の軍事活動に協力した。しかし長州との戦いでは旧式の軍制・装備などが災いし大敗した。この時点では幕府内では旧一橋派が主導権を持っており、桜田門外の変以降の彦根藩への報われない扱いを彼らの報復と意識したことが、大政奉還以降の薩長新政府支持へ繋がったともいわれている。
慶応3年(1867年)、大政奉還後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させた。翌慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、家老岡本半介は旧幕府軍と共に大坂城に詰めたが、藩兵の主力は東寺近くにある四塚や大津で薩長の後方支援にあたり、大垣への出兵に際しては先鋒となった。戊辰戦争では明治政府に加わって小山本宮など各地を転戦、近藤勇の捕縛にもあたった。戦功により賞典禄2万石を朝廷から拝領している。
慶応年間の江戸藩邸の所在は桜田門外に上屋敷赤坂喰違に中屋敷、八丁堀と千駄ヶ谷の2か所に下屋敷があった。また京都河原町三条下がるに京都藩邸、大坂過書町に大坂藩邸蔵屋敷があった。
なお、江戸で藩主や藩士が死去した際に使用する菩提寺は世田谷の豪徳寺である。
彦根藩邸址、京都市中京区木屋町・wikipedia-photo  (wikipedia・彦根藩より)]

彦根藩邸跡
[彦根藩主井伊家は,譜代の雄藩で度々幕政に参与した。安政5(1858)年大老になった13代井伊直弼(1815~60)は,勅許を待たず日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約に調印した。将軍後継問題での一橋派や尊王攘夷派志士の非難活動を押さえるため安政の大獄を起こし桜田門外の変で暗殺された。変後10万石を削られるが廃藩置県まで存続した。この石標は彦根藩邸の跡を示すものである。
所在地 中京区木屋町通三条下る二筋目(山崎橋西詰)
位置座標 北緯35度00分25.6秒/東経135度46分14.0秒(世界測地系)
建立年 1968年
建立者 京都市
寸 法 高112×幅18×奥行19cm
碑 文
[西]
彦根藩邸跡
[北]
昭和四十三年十一月 京都市
調 査 2002年2月5日  (「NA076 彦根藩邸跡 – 京都市」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全」(文久3 [1863] – 絵図中央右・誓願寺右にヒコ子と描かれています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図中央右方向・三条大橋左下方向に彦根と描かれています。絵図四つ切右上、相国寺右上、上御霊社右に描かれる彦根屋敷は、「「京都御備」としての安政期の湖北通船路開鑿事業 : 彦根藩と小浜藩との対立を軸とした通説の根本的再検討を通じて」に『彦根藩の陣屋地は、安政 4 年暮に鞍馬口辺 (上御霊神社北側) に決定され、翌安政 5 年 8 月から土地収容 (替え地) が始められるなど作業が開始され完成したものの、「明治七年以前には取りこわされて町家となっ」たという。」と記述されています。また、鴨川の右、聖護院下、熊野神社右にも彦根ヤシキが描かれています。)

彦根藩邸跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向が彦根藩邸跡碑です。