マーカーは徳川時代銀座遺址碑です。
徳川時代銀座遺址
[銀座は江戸幕府の銀貨(丁銀・小玉銀)鋳造所。慶長6(1601)年伏見に町屋敷4町を拝領してつくられたのが最初で,同13(1608)年伏見から京都の烏丸通の西,二条通と三条通間の両替町に移した。寛政の改革(1800)以後京都では銀貨幣の鋳造は行われず,銀道具・銀箔材料としての南鐐の売り渡しを行うのみとなった。明治元(1868)年廃止。この石標は徳川時代銀座の跡を示すものである。
所在地 中京区両替町通御池上る東側(龍池小学校前)
位置座標 北緯35度00分41.0秒/東経135度45分30.9秒(世界測地系)
建立年 1916年
建立者 京都市教育会
寸 法 高122×幅18×奥行18cm
碑 文
[南]
此附近 徳川時代銀座遺址
[東]
【未確認】
[西]
大正五年十一月建之 京都市教育会
調 査 2002年2月5日 (「NA095 徳川時代銀座遺址」より)]
[慶長13年(1608年)、伏見銀座より移転し、京都の室町と烏丸の中間、二条から三条までの四町(二条下ル、押小路下ル、御池下ル、姉小路下ル)に亘って拝領して設立され、この地を両替町と称するようになった。京都銀座では常是屋敷(大黒常是)は両替町御池の北東側角にあり、銀座役所はその北側に隣接し、江戸銀座の町割りもこれに準ずるものであった。銀座役所の北側には金座が隣接し小判の鋳造を行っていた。常是屋敷は表間口23間5尺5寸、奥行が15間5尺7寸で面積379坪8合あり、銀座役所は表間口13間6寸、奥行が15間3尺6寸(北側)〜15間5尺1寸(南側)で、その後拡張され表間口26間、奥行30間、面積834坪となった。延宝2年(1672年)の覚帳によれば両替町四町には常是屋敷、銀座役所を含めて59軒の屋敷が立ち並んでいた。銀座移転前のこの地は染物屋が多く集居していたが、西洞院蛸薬師付近に替地を与えられ立ち退いた。中井主水(
大工頭中井家文書)・茶屋呉服所(茶屋四郎次郎)もこの地にあったが、これらも替地を仰付けられ移転した。銀遣いの上方にあることから丁銀鋳造の中心地となり、駿河国、後に江戸とともに貨幣鋳造を担い、これは寛政12年(1800年)の銀座改革まで続いた。銀座改革以降、両替町押小路角の惣役所に規模が縮小され、不要となった7000坪余の跡地は上ゲ地となった。
京都銀座跡碑 京都市中京区両替町通・wikipedia-photo (wikipedia・銀座_(歴史) – 京都銀座より)]
カメラ南南東方向・電柱左が徳川時代銀座遺址碑です。