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教諭所(宣教館)跡
[幕末、京都の庶民教育機関であった教諭所は、もと、皆川淇園(みながわきえん)門下の北小路梅窓(きたこうじばいそう・竹窓)が計画し、天保四年(一八三三)許可されて室町丸太町下るの町家に開校した。数年後衰退し中絶をしたが、天保八年(一八三七)の飢饉に経済活動に従事した心学講社(しんがくこうしゃ・石門心学)の援助を得て翌九年七月東洞院三条下る住心院地内に新築、開講された。
教諭所の教育運動の特徴は経書講釈や心学道話の授業のほかに飢民救助などの社会事業に積極的に参加したこととされている。
元治元年(一八六四)七月の蛤御門(はまぐりごもん)の戦いで消失したが、翌二年二月、東洞院三条西北角の当地に再建された。明治二年(一八六九)ニ月、下京四番組小学校となり、教諭所は消滅した。 京都市]
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