マーカーは本家尾張屋です。
本家尾張屋
[本家尾張屋は寛正6年(1465)、応仁の乱の前々年に菓子司として創業しました。禅宗の広がりとともに、禅寺で蕎麦が食べられるようになり、その賄いのために菓子屋が寺院に出向いて蕎麦打ちの手伝いをしたとのことです。以来、本家尾張屋では和菓子と蕎麦の両方に携わってきました。江戸時代になると蕎麦は「むしやしない」(空腹時のちょっとした食事)として庶民にも愛されるように。尾張屋の蕎麦の評判は高まり、御用蕎麦司として宮中へも蕎麦を作りに上がっていました。現在の場所には130年ほど前に移り、風格ある建物が蕎麦の味とともに印象的です。 (「本家尾張屋十六代・稲岡亜里子さん – そうだ 京都、行こう。」より)]
[菓子と蕎麦、蕎麦と菓子。どちらも本家尾張屋の大切な柱です。
現在の店構えから「蕎麦屋」の印象を持つ方も多いと思いますが、先祖は菓子屋なのです。“やんごとなき御方より召されて”と文献に残っていますように、本家尾張屋は、室町時代に尾張国から京都に根づき、応仁の乱の頃から現在まで家業を守ってきた老舗です。
尾張屋の顔でもある代表銘菓「そば餅」が誕生したのは、江戸時代末期から明治時代にかけて、十三代目当主が考案したといわれます。かつては丸いものを総称して「餅」といい、その名残が尾張屋の菓名に生きています。ただし餅といいましても餅米や米粉を搗く粘りのある「餅」ではありません。小麦粉とそば粉を混ぜ、鶏卵や砂糖を加えた皮で小豆漉し餡を包み、天火で焼いた饅頭です。てっぺんに黒ごまを振った素朴なそば餅は、そば粉を使った菓子の先駆けだったと思われます。
尾張屋は蕎麦屋としても京都で最も歴史のある店かもしれません。
江戸時代中頃の1700年ごろ、初代稲岡伝左衛門が蕎麦屋をはじめました。現在のようにさまざまなメニューをお出しする飲食店の顔が本格的に加わりましたのは、戦後のことです。
明治時代のはじめころ、尾張屋は綾小路室町東入ルにあった店舗を、現在の二条通車屋町下ルに移転しました。戦後になって周囲のすすめもあり、先先代の十四代目が本格的に蕎麦の料理屋をはじめたといわれています。先代の十五代目は伝統を大切にしながら、新たなメニューや素材を取り入れることに挑戦した人でした。店も当初は菓子を販売する傍らでお蕎麦をお出ししていましたのが、住まいの二階を店として改装するなど、飲食店のスペースが広くなっていきました。 (「をわりや今昔 – 本家尾張屋」より)]
「本家 尾張屋 本店 (ほんけおわりや) – 烏丸御池/そば [食べログ]」
「御用蕎麦司 本家尾張屋 本店 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向が本家尾張屋です。