本能寺

    上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。

    国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号2/5・絵図四つ切左下、三条大橋右下方向に本能寺が描かれています。)

    本能寺
    [本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年(応永22年)、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである。日隆は、妙本寺(現在の妙顕寺)の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移った。1429年(永享元年)、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、さらに1433年(永享5年)、如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。その後、本能寺は日蓮の本義である「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西で方4町(約4万m²)の敷地を有し、また多くの子院も有していた。 応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、本能寺は、その本山として繁栄した。
    1536年(天文5年)、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失し、一時顕本寺に避難した。その後、1547年(天文16年)-1548年(天文17年)の頃帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺し「第8世」を称し、四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁した。日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内北陸瀬戸内海沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。
    本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。織田信長は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)、ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する事件が起き(いわゆる本能寺の変)、その際、堂宇を焼失した。1587年(天正15年)豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転された。伽藍の再建は1592年(天正20年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。江戸時代初期の1615年(元和元年)に江戸幕府から朱印寺領40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、江戸時代には末寺92を数える大寺院になっていた。1788年(天明8年1月)の天明の大火、1864年(元治元年7月)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。
    山門・wikipedia-photo、本堂・wikipedia-photo、信長廟・wikipedia-photo、「本能寺址、本能寺の変当時の所在地、中京区蛸薬師通小川通西南角」・wikipedia-photo  (wikipedia・本能寺より)]

    法華宗大本山 本能寺ホームページ

    本能寺境内図

    「本能寺の変」の場所となる、「本能寺址碑」へリンク

    都名所図会」・「巻之一 平安城再刻 本能寺」(天明の大火前、1780年以前の本能寺の図会)、「巻之一 平安城再刻 本能寺解説
    本能寺(拡大図)

    本能寺 山門 – Google Map 画像リンク」、「法華宗大本山 本能寺 – Google Map 画像リンク」、「本能寺 信長公廟 – Google Map 画像リンク

    カメラ東方向が本能寺表門です。

    本能寺本堂前のカメラです。

    信長廟前のカメラです。

    Leave a Reply

    Your email address will not be published. Required fields are marked *

    *