マーカーは本能寺址碑です。
本能寺址碑
[本能寺は,法華宗本門流の本山で応永22(1415)年妙本寺(現在の妙顕寺)の日隆が創建した。創建時は油小路高辻にあって本応寺と号した。永享5(1433)年四条坊門大宮(蛸薬師通大宮通)に移り,本能寺と改めた。天正10(1582)年6月2日の本能寺の変の時には,北は六角通,南は蛸薬師通,東は西洞院通,西は油小路通に囲まれた寺域を持っていた。のち豊臣秀吉(1536~98)の命により寺町通御池通に移転した。この石標は本能寺の変当時の所在地を示すものである。なお,この附近を元本能寺南町というのは,本能寺に因むものである。
所在地 中京区蛸薬師通小川西南角
位置座標 北緯35度00分22.0秒/東経135度45分15.8秒(世界測地系)
建立年 1915年
建立者 京都市教育会
寸 法 高114×幅19×奥行18cm
碑 文
[東]
此附近 本能寺址
[南]
寄附者本能自彊会
[西]
大正四年十一月建之 京都市教育会
調 査 2002年2月5日 (「NA054 本能寺址」より)]
[本能寺跡記
応永22年(1415)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失。天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此地に移転、壮大なる堂宇の再興をみた。然るに天正10年(1582)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17年(1589)、この地に再建せんとし上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙つと。因みに本能寺は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重なるを忌み、能の字を特に「䏻」と書くのが慣わしである。
大本山 本能寺 (「旧本能寺跡と織田信長 – 京都で定年後生活 – Goo ブログ」より)]
「本能寺跡 石碑 – Google Map 画像リンク」「本能寺跡 – Google Map 画像リンク」
カメラ南西方向が本能寺址碑です。
カメラ東方向が本䏻寺跡の碑です。