本間精一郎遭難地の碑

マーカーは本間精一郎遭難地の碑です。

本間精一郎遭難地
[本間精一郎(1834~62)は,越後国出身で文武に長じ,尊王攘夷の急進派として行動したが,酒色に身を持ち崩して志士仲間の反感を買い,文久2(1862)年閏8月20日,先斗町からの帰途に薩摩土佐藩志士に暗殺された。この石標は本間精一郎遭難の地を示すものである。
所在地 中京区木屋町通四条上る東側
位置座標 北緯35度00分20.6秒/東経135度46分13.2秒(世界測地系)
建立年 1968年
建立者 京都市
寸 法 高113×幅18×奥行19cm
碑 文
    [東]
    本間精一郎遭難之地
    [北]
    昭和四十三年十一月 京都市
調 査 2002年2月5日 (「NA082 本間精一郎遭難地 – 京都市」より)]

[本間 精一郎(ほんま せいいちろう、天保5年(1834年) – 文久2年閏8月20日(1862年10月13日))は、越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士。早くから江戸や京で学び、尊王攘夷の思想に目覚める。彼の一族は、日本海側の人々の中でも裕福な家系で、佐渡奉行や大商人とつながっている。
本間は故郷越後から江戸に出て清河八郎らと親交を結び、清河より一足早く京に上って、薩摩や土佐に倒幕を説いた。しかし、利発で勝気な気性の彼は論争に強く自己の実績を過大に喧伝していため、薩摩や土佐の貧しい出の浪士たちや、彼の存在を疎ましく思う同志が、彼にしこたまの酒を飲ませてからの殺害を企てた。その計画にまんまとはまり、同志の凶刃に斃れることとなった(実行者は田中新兵衛岡田以蔵と言われる)。そのため、彼の力量、評価にあたう成果を残さなかった。本間精一郎のなくなった場所には、本間精一郎殉難の地という石碑が建てられている(京都市中京区先斗町)。本間の死後に維新を成し遂げた新政府は従五位の官位を彼に贈っている(ほかに、長州吉田松陰久坂玄瑞など幕末に斃れた同志に対して新政府より官位が贈られている)。
「本間精一郎遭難の地 京都三条木屋町下ル」・wikipedia-photo  (wikipedia・本間精一郎より)]

カメラ東方向・車庫右側の板戸(当時は戸板はなかった)先は瓢箪露路で、本間精一郎は瓢箪露路(現・20番路地)を木屋町へ逃げようとしましたが、前から二人、後ろから六人にはさみ討ちにされ惨殺されたということです。車庫左側に本間精一郎遭難地の碑と駒札があります。

本間精一郎はカメラ西南西小路(瓢箪露路)を木屋町方向へ逃げた。

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