マーカーは東三条殿(藤原良房邸)跡の碑です。
東三条殿址(とうさんじょうどのあと)
[東三条殿(ひがしさんじょうどの、とうさんじょうどの、とうさんじょうでん)は、平安時代に平安京左京3条3坊1町及び2町(二条大路南西洞院大路東)の南北2町に跨って建てられた邸宅。東三条院とも。現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあたる。摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸であったところから彼を「東三条殿」と号し、またその娘藤原詮子の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となった(ただし、女院となってからは東三条殿に住んでいない)。後院や里内裏としても用いられ、特に11世紀後半からは摂関家の象徴的邸宅として重視され、保元の乱の舞台ともなった。
『二中歴』・『拾芥抄』にその所在地とともに忠仁公藤原良房(804年 – 872年)の家と見え、貞信公藤原忠平(880年 – 949年)、藤原兼家(929年 – 990年)が伝領したほか、重明親王(906年 – 954年)の家であったとも伝えるが、初期の伝領関係や使用歴には不明な点が多い。良房の主たる邸宅としては、平安京北東に東一条殿(小一条殿、父藤原冬嗣から伝領)や染殿があり、同時代の記録上に東三条殿の名は見えない。ちなみに、右京にあった弟藤原良相の邸宅は西三条殿と呼ばれた。一方、東三条殿の西には、西洞院大路を挟んで、冬嗣の邸宅であった閑院(後に藤原基経邸、藤原兼通邸、藤原公季邸)があり、その更に西には堀河殿(基経邸、後に兼通邸)があった。
永観2年(984年)3月、東三条殿は焼亡する。摂政となった兼家は、翌永延元年(987年)、東三条第本院を再建し、7月には移り住んだ。『大鏡』によると、この時に西対を内裏の清涼殿に模して建てたために批判を浴びたという。8月末には南院に詮子が入っている。『大鏡』によれば、この頃、詮子は源高明の娘明子を東三条殿の東対に住まわせて姫宮のようにもてなし、藤原道長を通わせたという。
正暦1年(990年)7月の兼家の死後、東三条殿は父の後を継いで摂関となっていた嫡男道隆に継承されたと見られる。同年10月に、中宮藤原定子は東三条第より入内している。また、引き続き詮子の里第として用いられたらしく、詮子は幾度か内裏から職御曹司を経て東三条第(南院)に下っている。
翌年の正暦2年(991年)9月、詮子は職御曹司で出家して日本最初の女院となり、この居宅の名より「東三条院」を院号とした。ただ、11月に内裏を退出して以降は、道長の土御門殿を御所とし、東三条殿に住むことはなかった。
正暦4年(993年)3月、摂政道隆の邸宅であった東三条第の南院が全焼する。本院は焼失を免れたらしく、南院もすぐに再建され、翌年11月には完成した。長徳元年(995年)4月、病の重くなった道隆は南院で出家した後、薨じた。
道隆の死後の具体的な伝領過程は明らかでないが、間もなく道長の所有となったらしい。
東三条殿は道長娘の三条天皇中宮藤原妍子の御所として使用されたが、長和2年(1013年)1月に火災で焼失した。
その後、東三条殿は再建されないままに道長嫡男頼通に譲られた。万寿2年(1025年)12月から再建が始まったが、完成間近の長元4年(1031年)4月に再度焼失した。長暦2年(1038年)より再度造営が始まり、長久4年(1043年)にようやく完成を見た。この年12月、内裏であった一条院が焼亡すると、東三条殿が後朱雀天皇の里内裏となり、寛徳2年(1045年)1月に天皇は東三条殿で崩御した。
頼通はその後も東三条第には住まず、長女の後冷泉天皇皇后藤原寛子の御所となった後、嫡男藤原師実の所有となった。
東三条殿の所有権(券文)は、康和1年(1099年)3月、藤氏長者を継いでいた嫡男藤原師通に譲られたが、3ヶ月後に師通が死去したため、所有権は再び師実に戻り、2年後のその死後は正妻の源麗子の管理下に置かれた。この間も東三条殿は摂関家の儀式の場として用いられ、永久2年(1114年)に麗子が没すると、東三条殿を含む所領は師通の嫡男藤原忠実の所有となった。翌年7月、忠実は東三条殿に移り、2年後に新造の鴨院に移るまで滞在した。
保安元年(1120年)1月、忠実は嫡男藤原忠通に東三条殿の所有権を譲った。同年11月、白河院により忠実の内覧が停止され、翌年初めに忠通が関白に就任した後も、東三条殿は摂関家の大規模な行事の会場として用いられた。長承4年(1135年)に忠通の後継者であった弟藤原頼長が近衛大将に任じられた頃から、頼長の重要儀式にも用いられている。
康治2年(1143年)、忠通に男子基実が生まれたことにより、摂関家の継承をめぐり、忠実・頼長と忠通の間に対立が生じた。
忠通・頼長の不仲は次第に深刻化し、保元元年(1156年)7月2日、抑えとなっていた鳥羽法皇が崩御すると、事態は急展開した。『保元物語』によれば、東三条殿には頼長と結ぶ崇徳上皇方の軍勢が集結し、謀反を計画したという。7月8日、頼長の宇治滞在中に、後白河天皇の軍が東三条殿を接収した。これをきっかけに、後白河天皇・忠通側と崇徳上皇・頼長側による保元の乱が勃発し、3日後には天皇と藤原忠通以下、天皇側の文武百官がここに立て籠もった。この乱で勝利した天皇は忠通に東三条殿を返還した。
乱の翌年、忠通は東三条殿の修理を行ない、7月から1月ほど後白河天皇が里内裏として利用した後、忠通娘の藤原聖子(皇嘉門院)に譲られた。
仁安元年(1166年)12月末、憲仁親王の着袴の儀が行なわれた2日後に火災で焼失した。以後は再建されずに荒廃し、しばしば里内裏となった閑院に面する「東三条の森」となった。
東三条殿復元模型
1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 西透廊(にしすきろう)、9. 釣殿(つりどの)
(wikipedia・東三条殿より)]
カメラ東北東方向に東三条殿跡の碑があります。
[東三条殿は,平安京左京三条三坊にあった平安時代の邸宅。藤原良房(804~72)が創設し,摂家嫡流に伝領され,藤原兼家(929~90)は東三条殿と称された。兼家の娘で一条天皇(980~1011)の母であった詮子(961~1001)は,初めて女院号を与えられ,居住地に因み東三条院と名乗った。寛弘2(1005)年の内裏焼亡により一条天皇の里内裏として用いられた。仁安元(1166)年焼失。この石標は東三条殿の跡を示すものである。
所在地 中京区押小路通釜座西北角
位置座標 北緯35度00分43.8秒/東経135度45分20.7秒(世界測地系)
建立年 1915年
建立者 京都市教育会
寸 法 高104×幅18×奥行17cm
碑 文
[南]
此附近 東三条殿址
[東]
城巽
[西]
円重寺住職
寄附者
小山開【以下未確認】
[北]
大正四年十一月建之 京都市教育【以下未確認】
調 査 2002年2月5日 (「NA004 東三条殿址 – 京都市」より)]