池田屋跡

マーカーは池田屋跡です。

池田屋跡
[池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条通木屋町通(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。池田屋騒動、 池田屋事変、三条小橋の変等ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。
池田屋跡(2009年9月現在、居酒屋となっている)・wikipedia-photo、池田屋跡(2010年4月)・wikipedia-photo、現在の三条小橋・wikipedia-photo  (wikipedia・池田屋事件より)]

池田屋騒動址
[文久3(1863)年8月18日の政変後,京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫されたため,長州・土佐・肥後などの志士が勢力回復をめざし,中川宮や京都守護職松平容保の暗殺計画を企てた。元治元(1864)年6月5日,三条池田屋において会合中の志士30余名が新選組に襲撃され多数の死傷者をだした。この石標は池田屋の跡を示すものである。
所在地 中京区三条通木屋町西入北側
位置座標 北緯35度00分32.8秒/東経135度46分11.3秒(世界測地系)
建立年 1927年
建立者 京都市教育会
寸 法 高120×幅18×奥行16cm
碑 文
[南]
維新
池田屋騒動之址
史蹟
[東]
京都市教育会
[西]
京都市教育会
[北]
寄附者
昭和二年十一月 佐々木フサ
調 査 2002年2月7日  (「NA033 池田屋騒動址 – 京都市」より)]

カメラ北北西方向が池田屋騒動址碑です。