マーカーは石田梅巌邸址碑です。
石門心学
[石門心学(せきもんしんがく)は、日本の江戸時代中期の思想家・石田梅岩(いしだばいがん・1685年 – 1744年)を開祖とする倫理学の一派で、平民のための平易で実践的な道徳教のことである。単に、心学ともいう。様々な宗教・思想の真理を材料にして、身近な例を使ってわかりやすく忠孝信義を説いた。当初は都市部を中心に広まり、江戸時代後期にかけて農村部や武士を含めて全国的に普及した。明治期に衰退したが、現代でも企業道徳の一環として学ばれている。
概要
徳川吉宗の時代、町人に道徳意識を与えることが急務とされ、石門心学がその任務に当たった。その思想は、神道・儒教・仏教の三教合一説を基盤としている。その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによって、その心を獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというものである。その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる。
一般民衆への道話(どうわ)の講釈と心学者たちの修業(会輔)の場となったのが、心学講舎と呼ばれる施設である。明和2年(1765年)に手島堵庵(てじまとあん)が五楽舎を開いたのが最初である。最盛期には全国に180カ所以上の心学講舎があった。
講舎の流れを汲む心学明誠舎が明治以降も大阪市を中心に活動しているほか、企業の社会的責任(CSR)といった現代のビジネス倫理の先駆と捉える解説・研究書が刊行されている。
名前の由来
石田梅岩門下の手島堵庵が大成したことから当初「手島学」と呼ばれていたが、松平定信が手島の弟子・中沢道二(なかざわどうに)の道話を「心の学び」と言ったことから「心学」と呼ばれるようになった。しかし、陽明学でも「心学」という用語を使うことから混同を避けるために「石門心学」と呼ばれたが、いつしか略されて「心学」が一般的呼称になった。 (wikipedia・石門心学より)]
石田梅巌邸址(いしだばいがんていあと)
[石田梅岩(梅巌,1685~1744)は,丹波の農家出身で上洛して商家に奉公する傍ら,独学で平易な町人哲学を確立した。これを石門心学という。享保14(1729)年,車屋町御池上るの自宅に講席を開き心学の普及に尽力した。この石標は元文2(1737)年に最初の講義の地から移転して講席を開いた石田梅岩邸宅の跡を示すものである。
所在地 中京区堺町通蛸薬師上る東側
位置座標 北緯35度00分23.5秒/東経135度45分47.9秒(世界測地系)
建立年 1916年
建立者 京都市教育会
寸 法 高124×幅18×奥行18cm
碑 文
[西]
石田梅巌邸址
[北]
大正五年五月建之 京都市教育会
調 査 2002年2月6日 (「NA027 石田梅巌邸址 – 京都市」より)]
カメラ東方向に石田梅巌邸址碑があります。