竹林寺

マーカーは竹林寺です。

竹林寺
[【五台山・法泉院・竹林寺】ごだいさん・ほうせんいん・ちくりんじ、と呼びます。通称は赤門の竹林寺(あかもんのちくりんじ・あかちく)
<赤門の竹林寺>とも言われる、浄土宗永観堂の末寺です。弘安2年(1279年)に顕意道教上人が開基。藤原時代初期の作品である十一面観音があります。本尊阿弥陀如来
平野國臣元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)の天誅組水郡善之祐ら16名、池田屋事件新撰組に捕らえられた古高俊太郎ら8名などの尊皇攘夷に奔走した志士37名の墓があります。 (「朱色の門が印象に残る京都の「五台山・法泉院・竹林寺 …」より)]

[平野国臣は、もと福岡藩士で京都において同志とともに尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に奔走したが捕えられ、元治元年(1864)7月19日、蛤御門(はまぐりごもん)の変のとき戦火に乗じて六角獄舎(ろっかくごくしゃ)で、生野(いくの)挙兵の同志、天誅組(てんちゅうぐみ)の水郡(にごり)善之祐以下16名、池田屋事件の古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)以下8名ら勤王志士とともに斬首された。「憂国十年、東走西馳、成否在天、魂魄帰地」と辞世の詩をよみ37歳の生涯をおえた。
 明治10年(1877)西の京刑場(西大路太子道一帯)あとから姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士三十七名の遺骨であることがわかり、あらためて当寺に移葬された。上京区下ノ下立売通西大路東入行衛町  (「平野国臣以下三十七士の墓(竹林寺)|【京都市公式】京都 …」より)]

カメラ北方向が竹林寺山門です。