篠山藩青山家京都屋敷跡

マーカーは篠山藩青山家京都屋敷跡です。

篠山藩青山家
[形原松平家第5代藩主・松平信岑は暗愚といわれ、折りしも享保の大飢饉と重なって米価が昂騰し、強訴が発生したにも関わらず、苛酷な重税を強いたため、藩内では百姓一揆が相次いだ。遂には延享4年(1747年)に百姓から中傷されたことが発端となり、翌年の寛延元年(1748年)8月3日、丹波亀山藩へ移封となった。
丹波亀山藩主だった青山忠朝が5万石で入れ替わる形で篠山藩主となった。その後、藩主家を青山家として明治時代まで続いた。忠朝は寺社奉行大阪城代を勤めた。
第2代藩主・青山忠高は儒学者を登用して藩校・振徳堂を建設し、藩士の教育と文化発展に努めた。一方、不作などにより百姓一揆も発生した。第4代藩主・青山忠裕は藩校を増築した。なお、忠裕は奏者番、寺社奉行、京都所司代、大阪城代を歴任し、さらに老中を三十年間も勤めた功績から、文政10年(1827年)5月7日に遠江に1万石を加増された。第5代藩主・青山忠良もまた幕末期の混乱の中で寺社奉行や老中を務めたが、阿部正弘追放の企てに失敗し失脚した。
この当時の藩政では、藩内の産業は稲作以外に見るべきものがなく、そのために藩財政も領民も困窮し、すぐ近くに京や大阪といった都市圏がある篠山は、ゆえに領民の中には出稼ぎに出る者、そのまま都市民となり戻らない者も少なくなかった。青山氏はこれによる人口流出(耕作労働力の低下)を恐れて出稼ぎを制限し、さらに財政再建のために徴税の強化や新税の制定を頻繁に行ったことなどから、明和8年(1771年)、万延元年(1860年)、明治2年(1869年)には大規模な一揆が起こっている。この他にも小規模な一揆、打ちこわしを合わせると、青山氏時代の一揆は20件を越えると言われている。なお、一揆に対しては藩が一揆側の要求を呑むことも少なくなかったと言われている。 第4代藩主の忠裕は市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季に灘などの摂津国方面の酒造業の盛んな地に杜氏として出稼ぎに行く(土地を離れる)ことを認めた。 忠裕はまた殖産興業策として、京焼の陶工である欽古堂亀祐を招いてを開かせている。 篠山藩の藩財政が苦しかったことを示すものとして、最末期の明治3年(1870年)12月末における藩の借財は、28万1329両であったと言われている。
最後の第6代藩主・青山忠敏の時代である慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、歴代藩主は幕閣であったが藩内は佐幕派、新政府派に分かれて対立した。しかし、西園寺公望率いる新政府軍が篠山に侵攻すると、新政府に恭順した。  (wikipedia・篠山藩#青山家時代より)]

[京都における大名火消制度は、元禄3(1600)年に畿内近国で勤める京都火消御番として開始された。その後2度の制度改革を経たのち、禁裏御所方火消を担っていた亀山藩淀藩膳所藩大和郡山藩の4藩が、享保7(1722)年に京都火消を兼ねた京都火消役となり、その制度が確立する。これ以降は4藩が月番で勤め、後に4藩の藩主が江戸詰の役職についた場合の補充として高槻藩と篠山藩が追加された。京都火消役は2藩ずつが組み合わされており、他の2藩主が帰国するのをまって在邑の2藩主が江戸へ参勤した。そして、天明大火(1788年1月30日 – 1788年3月9日)時に藩主自らが出馬したのは亀山藩と篠山藩であり、大和郡山藩、淀藩、膳所藩、高槻藩、園部藩は家臣を出動させている。  (「京都天明大火における大名火消の実態 – 大邑潤三・塚本章宏・北原糸子」より)]

[第八代の坂東篤之輔は、幕末の動乱の舞台となった京都における丹波篠山藩京都留守居役を勤められたことから、阪東家には所管や書付がたくさん残されています。
これら阪東家に伝わる所蔵品を手掛かりに、篠山藩の京屋敷(藩邸)の変遷、また京屋敷の果たした役割などを調査してこられました。
『京羽二重』や京都歴史資料館所蔵の古地図より、まず江戸時代初期から幕末まで、計4箇所にわたる藩邸の所在地を突き止めておられます。
江戸時代初期には今の大丸辺りに、1600年代後半には二条城の北、1700代半ばには松原通り新町辺りに、そして江戸時代後半から幕末までは六角堂の南と、屋敷地が移動しているのも面白いところです。
また、篠山藩主青山家は譜代大名であったこともあり、混乱した幕末の京都でどのように世の中の情勢に対応していったのかを考えることも興味深いところです。
 当時の京屋敷の果たした役割も併せて考えてみました。
慶応4年(1867)12月9日の「王政復古」宣言直後、京都町奉行廃止に伴い、新政府により丹波亀山藩、近江膳所藩とともに、市中取締などの役割のほか、京都火消役も命じられています。
篠山藩はしばらく京都に残ってその任務を果たし、幕末を生きた京都留守居役第八代坂東篤之輔が篠山に帰郷したのは、明治2年9月になってからのことでした。  (「第54回研究発表会(13.10.8) – 京都観光文化を考える会・都草」より)]

祇園祭を受け継ぐ風格のあるまち, 商いと暮らしが … – 京都市」の「祇園祭の山と鉾,明倫の歴史を物語る駒札,遺跡など」図に篠山藩青山家京都屋敷が描かれています。

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863] )」(絵図中央付近・六角堂左下に青山ヤシキと記述されています。)

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図中央付近・六角堂左下に笹山ヤシキと記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図四つ切右下・六角堂左下に青山ヤシキと記述されています。)

カメラ西方向に篠山藩青山家京都屋敷があったと思われます。