若狭小浜藩邸跡

マーカーは若狭小浜藩邸跡碑です。

若狭小浜藩邸跡
[若狭小浜藩主は譜代大名酒井家であった。その京都藩邸は,江戸時代を通じて二条城南西のこの地にあった。幕末の小浜藩邸は京都所司代酒井忠義(12代,1813~73)の本拠で,将軍後見職一橋慶喜が最後の将軍として二条城に入るまでの3年10ヶ月を過ごし,大政奉還への道筋を構想した場所とされる。安政5(1858)年京都所司代に再任された酒井忠義は,井伊直弼の命で勤王志士を一網打尽にした。13代忠氏(1835~76)は水戸天狗党を追討した。鳥羽伏見戦では,東軍(幕府軍)に従い橋本で敗れ,敗走途中に山陰鎮撫総督(西園寺公望)に降伏し,以後官軍に協力した。この石標は若狭小浜藩邸の跡を示すものである。なお,石標の文字は酒井家の現当主が揮毫し,近くの住家庭園に残っていた藩邸の燈籠も移された。
所在地 中京区西ノ京池ノ内町
位置座標 北緯35度00分39.5秒/東経135度44分46.3秒(世界測地系)
建立年 2002年
建立者 (小浜市)
寸 法 高30×幅45×奥行17cm
碑 文
[北]
若州
小浜藩邸跡
酒井忠和書
[南]

2002年
中島辰男
福井県立若狭歴史民俗資料館長
調 査 2002年8月13日  (「NA122 若狭小浜藩邸跡 – 京都市」より)]

[若州小浜藩邸 通称若州屋敷
ここ池ノ内町一帯は江戸時代京都所司代を三代二十一年の長きにわたって務めた譜代名門の若州小浜藩酒井家十二萬二千石の京都藩邸跡である。  その敷地は東西二二〇米神泉苑通から智恵光院通まで、南北二六〇米御池通から三条通まで、その他家臣の屋敷が西側につづきこれらを含めると約二萬坪の広大な藩邸であった(二条城約八萬坪)
又、この屋敷はのちに徳川十五代将軍となった慶喜公が文久三年(一八六三)十二月から住居し、慶應三年(一八六七7)九月二十一日二条城に移るまでの三年十ヶ月、京都における幕府の活動拠点となり、この間ここで四賢侯会議を始め、京都守護職、老中、所司代ら幕閣要人等と協議を重ね、大政奉還の腹案を持って二条城に入り、慶應三年十月十四日の布告となった。この屋敷が幕末我国にとって重要な役割を演じ、その決断が下された場所である。
当時の面影を残すものは無く 唯一前に立っている燈籠あり、側面に萬延二辛酉二月(一八六一)正面に白須甲斐守源政偆とある。
  福井県 小浜市  (「Google Map 画像リンク」より)]

<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第1部(京都御所~村岡)

京都大学貴重資料デジタルアーカイブ-中井家絵図・書類」 – 「一橋殿御旅館絵図

国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」[コマ番号2/5・絵図四つ切右下、御城の右上に酒井靱負佐と描かれています。]

国際日本文化研究センター – 京大絵図(貞享3・1686年)」(絵図中央左方向・二条御城下方向に酒井靭負佐(酒井忠囿)十二万二千石と描かれています。]

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」[絵図中央左・二条御城左下に若劦(州)ヤシキと描かれています。]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図中央左・二条御城左下に若州屋敷と描かれています。)

若州小浜藩邸跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向に若狭小浜藩邸跡碑と案内板があります。