錦小路薩摩屋敷址

マーカーは薩摩屋敷址碑です。

錦小路薩摩屋敷址
[薩摩藩の藩主は,外様大名島津氏。その京屋敷は当初,室町通四条下るに設けられたが,おそくとも宝暦年間(1751~64)にはこの地に移転した。幕末期,島津久光(1817~87)の上京後の文久3(1863)年,相国寺南の二本松にも新屋敷を設けた。さらに等持院村(現在北区白梅町)にも広大な屋敷を構え,それぞれを政治的拠点とした。この地にあった本邸は1500坪以上の敷地を持っていた(『京都御役所向大概覚書』)。この石標は薩摩藩邸の跡を示すものである。
所在地 中京区東洞院通錦小路下る東側
位置座標 北緯35度00分16.6秒/東経135度45分39.7秒(世界測地系)
建立年 1933年
建立者 京都市教育会
寸 法 高126×幅20×奥行20cm
碑 文
[北]
薩摩屋敷之址
[南]
下村大丸寄附
[東]
昭和八年三月建之
[西]
京都市教育会
調 査 2002年10月9日  (「NA125 薩摩屋敷址」より)]

[【薩摩屋敷之址】
江戸時代の諸国大名は、江戸とともに京都の市中にも藩の出先機関として藩邸を構えていた。
薩摩藩邸もそうした松平(島津)薩摩守の京屋敷であった。
この場所に大名の屋敷が設けられたのは、16世紀末か17世紀初頭からと考えられる。
まず最初は山城守松平忠国の屋敷であったが、17世紀末の一時期は松平下総守の屋敷になり、その後18世紀初頭からは約160年間にわたり代々の薩摩守(島津氏)の京屋敷となっている。
薩摩藩邸の入り口は、当初錦小路通にあったが、後には東洞院通にも拡張されている。
薩摩藩邸は、18世紀の「宝永の大火」「天明の大火」で類焼したが、その都度再興されてきた。
しかし、幕末に京都市街の大半を焼いた「蛤御門の変」(1864年)による兵火で焼亡した後は、明治3年(1870)に他の諸藩の京屋敷と同様に廃邸となった。  (「薩摩屋敷之址(京都市中京区) ( 京都府 ) – 三日月の館 – Yahoo!ブログ」より)]

[享保2(1717)年ごろにまとめられた『京都御役所向大概覚書』の「京都大名屋敷・拝領地並買得屋敷之事」の16番目に、松平薩摩守すなわち薩摩藩の屋敷に関して、「錦小路通東洞院東江入町、表口三十三間 、裏行四拾六間 。右地続東洞院四條上ル町ニ而表口十九間、裏行拾五間四尺所買足。買得大橋金左衛門・藤本彦右衛門両人名代」とある。表が33間すなわち59.4メートルで、奥行きが46間すなわち82.8メートルの敷地で、それに新たに買い足されたのは、表口19間すなわち34.2メートルで、奥行きが15間あまりで、約27メートルの敷地であった。商人の大橋と藤本が、薩摩藩の名代として購入したのである。現在の京都市街地の中心部に位置する四条烏丸にほど近いところに、この薩摩屋敷が位置していた。  (「藩邸 – 国土地理協会」より)]

薩摩藩二本松屋敷の政治的意義 ― 島津家の国事と京の拠点―笹部昌利

国際日本文化研究センター – 京大絵図(元禄9・1696年)」(絵図中央・四条通月ほこ丁下に松平大隅 知行七十二万九千石と描かれています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 〈新板増補〉京絵図(成立西暦・1709年)」(絵図中央下・四条通月ほこ丁下と立うり西丁上に松平薩摩が描かれています。)  

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図中央右下・錦小路西魚ヤ丁下に薩州ヤシキと描かれています。)

薩摩屋敷跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向ビル柱手前に薩摩屋敷之址と案内板が設置されています。