藤原定家京極邸址碑

マーカーは藤原定家京極邸址碑です。

藤原定家京極邸址
[藤原定家(1162~1241)京極邸は平安京左京二条四坊十三町にあったと伝える。その邸地より,定家は京極中納言と称された。九条家に出入りし良経(1169~1206)や慈円(1155~1225)の知遇を受け,後鳥羽院(1180~1239)に見出されその歌風を大成させた。治承4(1180)~嘉禎元(1235)年に及ぶ日記『明月記』を残す。その墨蹟も「定家風」と呼ばれ古筆として尊重された。この石標は定家の京極邸跡を示すものである。
所在地 中京区寺町通二条上る西側
位置座標 北緯35度00分50.3秒/東経135度46分02.2秒(世界測地系)
建立年 1916年
寄附者 古梅園  (「NA040 藤原定家京極邸址 – 京都市」より)]

カメラ西北西方向・古梅園右角に藤原定家京極邸址碑があります。

藤原定家
[藤原 定家(ふじわら の さだいえ)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。は「ていか」と音読みされることが多い。藤原北家御子左流藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。法名は明静(みょうじょう)。歌人の寂蓮は従兄、太政大臣西園寺公経は義弟にあたる。
平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道の家としての地位を不動にした。代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。2つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。ほかにも秀歌撰に『定家八代抄』がある。歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。家集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じた。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」である。『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった)。また、『松浦宮物語』の作者は定家とする説が有力である。18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(平成12年(2000年)、国宝に指定)を残した。このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。
「藤原定家京極邸址、京都市中京区」・wikipedia-photo、藤原定家墓・wikipedia-photo  (wikipedia・藤原定家より)]

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