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「国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図四つ切左上、仙洞御所左に移転前の革堂 行願寺が描かれています。)
行願寺(革堂)
[行願寺(ぎょうがんじ)は、京都府京都市中京区にある天台宗の寺院。山号は霊ゆう山(「ゆう」の漢字は「鹿」の下に「匕」)。本尊は千手観音。通称、革堂(こうどう)。西国三十三箇所第十九番札所である。
『百錬抄』、『日本紀略』等によれば、行願寺は寛弘元年(1004年)、行円が一条通小川通の一条北辺堂跡に創建したものである。一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。
行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれた。行円の生没年は未詳だが、比叡山の横川(よかわ)出身の聖と推定されている。藤原道長の息の藤原顕信は寛弘9年(1012年)、行円のもとで剃髪出家している。
寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転した。
伽藍
●本堂 – 1815年、京都市指定有形文化財
●鐘楼 – 1804年、京都市指定有形文化財
●寿老人神堂 – 安土桃山時代
●庫裏
革堂・wikipedia-photo、庫裏・wikipedia-photo、寿老人神堂・wikipedia-photo、七福神像・wikipedia-photo (wikipedia・行願寺より)]
[当寺は一般に革堂の名で親しまれている。現本堂は文化12年(1815)の再建で,外陣を吹放ちとするほか,複雑な屋根構成や豊かな彫刻に特色がみられる。西国巡礼の札所本堂として近世天台宗本堂としても価値が高い。鐘楼は文化元年(1804)の建物である。 (「京都市指定・登録文化財-建造物」より)]
一条革堂
[一条革堂は,平安京左京北辺の一条油小路北に所在した天台宗の寺院で行願寺という。寛弘元(1004)年行円(生没年未詳)の創建。行円が,寒暑を問わず鹿皮の服を身に着け,遊行したことから皮聖と呼ばれ,行願寺も革堂・皮聖寺の名で知られる。創建に際して寺額は藤原行成が書いた。中世の兵乱期に寺町今出川に移り,三転して現在地に移った。この石標は一条革堂が,元来一条油小路上るにあったことを示すものである。
所在地 中京区寺町通竹屋町下る東側(行願寺前)
位置座標 北緯35度00分58.1秒/東経135度45分53.5秒(世界測地系)
建立年 慶応3年
建立者 上京末広講
寸 法 高146×幅28×奥行27cm
碑 文
[南]
一条かうだう
[西]
西国十九番札所
[東]
慶応兎ノ年之冬建 上京末広講
[北]
有志之輩二世安楽
調 査 2002年2月15日 (「NA108 一条革堂 – 京都市」より)]
行願寺資料リンク
「都名所図会」・「巻之一 平安城再刻 革堂 (行願寺)・下御霊社 (下御霊神社)」、「巻之一 平安城再刻 行願寺解説」
革堂 (行願寺)・下御霊社 (下御霊神社)(拡大図)
「霊麀山行願寺(革堂) – Google Map 画像リンク」
カメラ東方向が行願寺山門で、山門前左に一条革堂碑があります。
行願寺山門内のカメラで、カメラ東方向が本堂、右方向に手水舎があります。
行願寺本堂前のカメラです。
カメラ北方向突き当りが鎮宅霊符神堂、右が庫裏で、左に鐘楼、カメラ左方向右が寿老人神堂、左が愛染堂になります。
カメラ位置は鐘楼西側で、カメラ北西方向中央に加茂大明神五輪塔があります。