マーカーは西三条第(藤原良相邸)跡です。
西三条第(藤原良相邸)跡
[京都市中京区の平安京右京三条一坊六町の発掘現場で、「三条院釣殿高坏」と記された平安時代前期の墨書土器などが出土し、市埋蔵文化財研究所が8日、一帯が当時の右大臣、藤原良相(よしみ)(813~867年)の邸宅「西三条第(百花亭)」跡と確定したと発表した。同研究所は4月から、鎌倉時代の事典「拾芥抄(しゅうがいしょう)」で西三条第があった場所と記されている平安京の中央北側にあたる約4千平方メートルを発掘調査。これまでに柱穴などが見つかっていたが、今回は当時の貴族の暮らしぶりをうかがわせる高級な輸入陶磁器や墨書土器、水晶などが多数出土した。土器に書かれた「院」の文字は皇室を示し、良相の姉で文徳天皇の母だった藤原順子(809~871年)が約1年間、西三条第に住んだという平安時代の歴史書「日本三代実録」の記述とも一致するという。良相は皇族以外で初の摂政となった藤原良房の弟。西三条第には天皇や文人が訪れ、花見の宴も開かれたという。同研究所は「平安京の貴族邸宅の場所が、発掘調査で裏付けられたのは初めて」としている。 (「平安京出土の墨書土器 – 芸術の風景 展覧会情報 artscene」より)]
藤原良相
[藤原 良相(ふじわら の よしみ/よしあう、弘仁4年[1](813年)- 貞観9年10月10日(867年11月9日))は、平安時代前期の公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の五男。文徳天皇の外叔父。官位は正二位・右大臣、贈位正一位。西三条大臣と号す。
若くして大学で学び、その弁舌は才気に溢れていた。承和元年(834年)仁明天皇に召し出されて六位蔵人・右兵衛権大尉として、天皇の身近に仕える。、嘉祥元年(848年)には参議として公卿に列した。また、承和9年(842年)の承和の変に際しては、左近衛少将として近衛兵40名を率いて皇太子・恒貞親王の座所を包囲し兵仗を収めている。嘉祥3年(850年)甥の皇太子・道康親王が即位(文徳天皇)すると、正四位下に叙され、新皇太子・惟仁親王(清和天皇)の春宮大夫に任ぜられる。貞観6年(864年)清和天皇に娘の多美子を入内させ、また周囲からの人望も厚かったことから、政権の首座にあった兄良房からは常に警戒される存在であった。貞観8年(866年)の応天門の変に際し、伴善男の告発を受け一旦は左大臣源信の逮捕命令を下すが、信の無実を訴えた良房によってこれを阻止され、以降は政治的影響力を失った。翌貞観9年(867年)10月初めに直廬で急病となり、同月10日に死去、即日正一位を贈られた。遺言に従って薄葬とし、一重の衾だけで棺を覆わせたという。
幼少時から度量が広く傑出していた。仏教への信仰心が篤く、臨終に際して極楽往生を信じて疑わなかった様子は隋の姚察にもなぞらえられたという。また、長い間肉食をせず粗食で通していたことから非常に痩せており、それは終生続いたという。
説話
以前、良相は学生であった小野篁が罪を犯した際これを弁護したことがあった。後に良相は病を得て一旦死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えられるが、閻魔王宮の臣として裁判を手伝っていた篁の執り成しによって赦され冥界から帰還したという。 (wikipedia-藤原良相より)]
カメラ南東方向が藤原良相邸跡です。(参考リンク「平安京跡「百花亭」・・現地説明会 平安前期・藤原良相(よしみ)邸跡 」)