西土手刑場跡

マーカーは西土手刑場跡です。

[京都には刑場が三条河原・六条河原京都府京都市)、粟田口刑場(京都府京都市山科区)、西ノ刑場(京都府京都市中京区)の三ヶ所にあった。  (wikipedia・刑場より)]

[山脇 東洋(やまわき とうよう、宝永2年12月18日(1706年2月1日)- 宝暦12年8月8日(1762年9月25日))は、江戸時代の医学者。長らく禁制とされてきた人体解剖を江戸幕府の医官として日本で初めて行い、その記録を公表した「親試実験」主義の先駆者の一人。日本近代医学の端緒を打ち立てた人物と評される。
宝暦4年(1754年)、京都所司代酒井忠用の許可が下りたことにより、閏2月7日、西土手刑場で斬首された死刑囚・屈嘉の腑分けに立会い、その観察記録を行って十年来の疑問を氷解するに至る。宝暦9年(1759年)にはその成果を解剖図録『蔵志』(二巻)として刊行。漢方医による五臓六腑説など、身体機能認識の誤謬を指摘した。  (wikipedia・山脇東洋より)]

[平野国臣は、もと福岡藩士で京都において同志とともに尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に奔走したが捕えられ、元治元年(1864)7月19日、蛤御門(はまぐりごもん)の変のとき戦火に乗じて六角獄舎(ろっかくごくしゃ)で、生野(いくの)挙兵の同志、天誅組(てんちゅうぐみ)の水郡(にごり)善之祐以下16名、池田屋事件の古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)以下8名ら勤王志士とともに斬首された。「憂国十年、東走西馳、成否在天、魂魄帰地」と辞世の詩をよみ37歳の生涯をおえた。
 明治10年(1877)西の京刑場(西大路太子道一帯)あとから姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士三十七名の遺骨であることがわかり、あらためて竹林寺に移葬された。上京区下ノ下立売通西大路東入行衛町  (「平野国臣以下三十七士の墓(竹林寺)|【京都市公式】京都 …」より)]

西土手刑場趾 今は平和な西ノ京円町界隈|ガイドブックに …

場所と物語-京都の罪人引き廻し伝承を事例として- 土居 浩

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カメラ北東方向、ブロック塀向こう付近が西土手刑場跡になるようで、現在は竹林寺墓地になっているようです。