角倉了以翁顕彰碑

マーカーは角倉了以翁顕彰碑です。

角倉了以翁顕彰碑
[桜並木が続く木屋町通。元立誠小の玄関脇に、大きなくわを手にした角倉了以の胸像がある。「高瀬川開削三百七十五年記念」として1985年に建立された。  (「角倉了以翁顕彰碑 – 京都新聞|特集アーカイブ」より)]

角倉了以
[角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) – 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国期京都の豪商。
朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川高瀬川を私財を投じて開削した。また幕命により富士川天竜川等の開削を行った。地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。
角倉家の本姓は「吉田氏」。佐々木氏の分家であるという。もともとは近江国犬上郡吉田村出身とされ、室町時代中期に上洛室町幕府お抱えの医者としてつとめた。その後、医業で得た財を元に土倉を営むようになる。了以の祖父・吉田宗忠は土倉業は長男に継がせ、次男に医者を継がせた。この次男・吉田宗桂が了以の実父である。
角倉家は茶屋四郎次郎の「茶屋家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれる権勢を誇っていたが、他の2家が徳川家康に接近することで急成長したのに対し、角倉家はそれ以前より成功していた商人であったところが異なる。
「角倉」は運営していた土倉の名前の一つから取られた物である。
墓所は京都市嵯峨野二尊院
高瀬川沿いの顕彰碑・wikipedia-photo、嵐山の角倉了以像・wikipedia-photo、高瀬川・wikipedia-photo、角倉了以邸跡 邸宅跡 京都市中京区木屋町二条下ル・wikipedia-photo、角倉了以邸跡 庭園跡・wikipedia-photo  (wikipedia・角倉了以より)]

カメラ位置は元・立誠小学校前で、カメラ北西方向に角倉了以翁顕彰碑があります。

カメラ南西方向に七之舟入址碑があります。

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