マーカーは足利尊氏邸跡の碑です。
足利尊氏
[足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 – 1358年)。足利将軍家の祖。
足利貞氏の次男として生まれる。はじめ得宗・北条高時の偏諱を受け高氏と名乗った。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で鎌倉幕府への叛乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、名を尊氏に改める。
後醍醐の独裁体制である建武の新政が急速に人心を失っていく中、中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとは、そのまま鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化した。尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪するが、足利直義・高師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。だが、2月11日に摂津国豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中の鞆の浦で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧し(延元の乱)、光明天皇を擁立して征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐天皇はいったんは捕虜となったものの吉野に逃亡し南朝を創始することになった。
幕府を開いてのち弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に対立し観応の擾乱を引き起こす。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇の崩御後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。新千載和歌集は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の新続古今和歌集まですべて将軍の執奏によることとなった。
天皇に叛旗を翻したことから皇国史観のもとで「逆賊」と位置づけられていた時代(明治時代中期~昭和時代前期)もあった一方、戦後(昭和時代中期~平成時代以降)は一転して肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が、甚だしく激しく大きく変化している。 (wikipedia-足利尊氏より)]
カメラ北東方向・植え込みの中に足利尊氏邸跡の碑があります。