郡上藩青山家京屋敷跡

マーカーは郡上藩青山家京屋敷跡です。

[中京区六角通油小路西入の地に郡上八幡藩青山氏の屋敷がありました。1340坪の広さがあり、庭には300坪の大きな湧水池があったそうです。中の島に弁才天と竜神を、岸に稲荷明神が祀られていました。  (「廣瀬治助のことなど – 色染物質会」より)]

青山幸哉
[青山 幸哉(あおやま ゆきしげ)は、文化12年(1815年)、青山宗家の丹波国篠山藩4代藩主・青山忠裕の七男として、江戸に誕生。分家の美濃国郡上藩(八幡藩)5代藩主・青山幸礼に嗣子がなかったため、養子となり、天保9年(1838年)の幸礼の死去により家督を継いだ。
天保11年(1840年)に奏者番に任じられ、天保14年(1843年)に寺社奉行を兼任する。しかし弘化3年(1846年)、藩財政悪化を理由に辞職した。このため、財政再建を主とした藩政改革を行なう。借財整理、生糸の専売、倹約などを中心とした八幡藩の安政・文久の改革である。これらは多少は効果があったものの、万延元年(1860年)7月に寺社奉行と奏者番を再任する形で兼任となったため、またも出費が重なり、さらに文久元年(1861年)12月に寺社奉行を、文久2年(1862年)閏8月に奏者番制度が廃止されて辞任した後は、文久3年(1863年)4月に神奈川警備、5月に摂津国警備を命じられて更に出費が続くことになる。また、藩内でも改革に反対する領民による万延の郡上騒動が起こって、改革は中止に追い込まれた。
このような中で、失意のうちに文久3年(1863年)7月16日、死去。享年49。跡を長男・幸宜が継いだ。  (wikipedia・青山幸哉より)]

青山幸宜
[青山 幸宜(あおやま ゆきよし)は、嘉永7年(1854年)、6代藩主・青山幸哉の長男として誕生。文久3年(1863年)、父の死去により家督を継ぐ。
元治元年(1864年)、天狗党の乱では幕命に従って鎮圧のために出兵したが、天狗党が既に通過した後だったために戦うことなく終わっている。幕末期の郡上藩では、佐幕派と尊王派が対立し、幸宜も消極的ながら佐幕派として行動していたが、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まると、2月に新政府に恭順している。しかし家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉が凌霜隊を結成して脱藩し、幕府側に味方して会津若松城で戦うなどしている。
明治2年(1869年)の版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免職された。  (wikipedia・青山幸宜より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868)」(絵図四中央下、二条御城右下方向、東堀川六角通東入ル北に青山ヤシキが描かれています。)

カメラ位置は東堀川六角通東入ルで、カメラ北方向が郡上藩青山家京屋敷跡になると思います。