高槻藩永井家京都屋敷跡

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高槻藩永井家
[慶安2年(1649年)、山城長岡藩より永井直清が3万6000石で入ってようやく藩主が定着し、永井氏13代の支配を経て明治時代を迎えた。
13代藩主永井直諒は慶応3年(1867年)11月17日、土屋寅直土井利与雁間詰の大名たちと朝廷へ出仕しないことを申し合わせる。同年12月21日、京都火消役を命じられた。また、孝明天皇の一周忌に際し、泉涌寺の警備も命じられた。慶応4年(1868年)1月8日、上洛する。同年3月4日、明治政府から帰藩を許可される。同年閏4月10日、再び上洛する。戊辰戦争では始め日和見し、やがて新政府が有利になると、新政府に与した。高槻京都から河内に通じる重要な拠点であり、このため直諒は明治維新洞ヶ峠とまで言われた。  (wikipedia・高槻藩永井直諒より)]

[京都における大名火消制度は、元禄3(1600)年に畿内近国で勤める京都火消御番として開始された。その後2度の制度改革を経たのち、禁裏御所方火消を担っていた亀山藩淀藩膳所藩大和郡山藩の4藩が、享保7(1722)年に京都火消を兼ねた京都火消役となり、その制度が確立する。これ以降は4藩が月番で勤め、後に4藩の藩主が江戸詰の役職についた場合の補充として高槻藩と篠山藩が追加された。京都火消役は2藩ずつが組み合わされており、他の2藩主が帰国するのをまって在邑の2藩主が江戸へ参勤した。そして、天明大火(1788年1月30日 – 1788年3月9日)時に藩主自らが出馬したのは亀山藩と篠山藩であり、大和郡山藩、淀藩、膳所藩、高槻藩、園部藩は家臣を出動させている。  (「京都天明大火における大名火消の実態 – 大邑潤三・塚本章宏・北原糸子」より)]

[わが家は乾校の北側の、因幡町にある。江戸時代のはじめ頃までは御所の蛤御門の近くの新在家町に住んでいたが、元禄時代に御所が拡張されたときに、替地として因幡町・今新在家東・西が充てられて、ここに遷り住んだらしい。
乾校(現・洛中小学校)の敷地は、維新までは永井飛騨守の屋敷だった。飛騨守は御所と二条城の、今流にいえば防火責任者で、毎朝、馬に乗って大宮通りを上がって行ったものだという。これは慶應生まれの祖母から聞いたことで、祖母も誰かから聞いたのかもしれない。  (「精華おばけ会活動記録と調査資料 – 京都精華大学」より)]

京都大学貴重資料デジタルアーカイブ – 寛永後萬治前洛中絵図(出版年 1642年)」[絵図四つ切左上・二条御城左方向に永井日向守(永井直清)が描かれています。]

国際日本文化研究センター – 京大絵図(貞享3・1686年)」[絵図中央左方向・壬生寺右上方向に永井日向守(永井直種)三万六千石と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863] )」(絵図四つ切左下・二条御城下方向、牢ヤシキ下に高槻と記述されています。)

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図四つ切左下方向、牢ヤシキ下に高槻ヤシキと記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図四つ切左下方向、若州屋敷下の牢屋鋪下に高槻ヤシキと記述されています。)

カメラ南方向が高槻藩永井家京都屋敷跡に建つ洛中小学校正門です。