京橋(伏見口の戦い激戦地跡)

マーカーは京橋です。

京橋
[この橋を京橋という。橋下の流れは宇治川に注ぎ、淀川に通じている。淀川の水運は、古くは京・大阪を結び、また琵琶湖を経て、遠く東海道北陸とも連絡する交通上の大動脈であったが、慶長年間(1596~1615)、角倉了以(すみのくらりょうい)が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は旅人や貨物を輸送する船着場として大いに栄えた。淀川を上り下りして貨客を運んだ三十石船や高瀬川を往来した高瀬舟、更に宇治川を下ってきた柴舟(しばぶね)などがこの辺りにひしめき合い、数十軒の船宿も立ち並んで、昼夜の別なく雑踏を極めた。しかし、明治初年、京都・大阪間に鉄道が開通するに至って次第にさびれ、今は往時の盛観は見られないが、ここから東約50メートルの所にある旅館「寺田屋」がわずかに昔の船宿の名残りをとどめている。  (「京都観光Navi:京橋」より)]

伏見口の戦い激戦地跡
[所在地 伏見区南浜町(京橋北詰東側)
位置座標 北緯34度55分48.7秒/東経135度45分31.9秒(世界測地系)
建立年 2009年
建立者 伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会
寸 法 高110×幅18×奥行18cm
碑 文
[西]
伏見口の戦い激戦地跡
[北]
平成二十一年十二月建之
伏見観光協会
(社)伏見納税協会青年部会
[副碑西]
伏見口の戦い激戦地跡
江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝船など、千数百隻にもおよび舟運で賑わった伏見港の中心がこの京橋付近です。角倉了以による高瀬川の開削で、洛中と伏見が舟運で結ばれるとさらに発展しました。ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物で賑わっていました。橋の南詰には三十石船のように運上金によって幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。
幕末慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここに伏見御堂(東本願寺伏見別院)を宿陣として戦いました。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。
伏見観光協会
(社)伏見納税協会 青年部会
平成21年12月 建立
調 査 2010年1月6日  (「HU156 伏見口の戦い激戦地跡 – 京都市」より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 伏見図(成立推定 近世中期写)」(絵図四つ切右下に「京橋」が描かれています。)

都名所図会」・「巻之五 前朱雀再刻 伏見船場 (伏見の船場)」、「巻之五 前朱雀再刻 京橋の辺 (伏見の船場)解説
伏見船場 (伏見の船場)(拡大図)

京橋 – Google Map 画像リンク」「伏見口の戦い激戦地跡 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は京橋北詰で、カメラ東方向に京橋の駒札、その左に伏見口の戦い激戦地跡碑が設置されています。その脇の石段下が伏見の船場の跡で公園として整備されています。

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