伏見城跡・指月城跡発掘調査地点

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伏見城跡・指月城跡発掘調査地点
[伏見城は,豊臣秀吉により築城された城です。現在の研究では,築城から廃城までの約 30 年に4つの画期(Ⅰ期:指月屋敷Ⅱ期:指月城Ⅲ期:伏見城豊臣期Ⅳ期:伏見城徳川期)があると考えられています。文禄元年(1592),現在の観月橋団地一帯に想定されている「指月丘」に,豊臣秀吉が隠居所として指月屋敷を築きはじめ(Ⅰ期),翌年の文禄二年(1593)の秀頼誕生を機に,指月屋敷を本格的な城郭として改築し始め,指月城を築き上げます(Ⅱ期)。しかし,慶長元年(1596)の大地震により,指月城や大名屋敷が倒壊するなどの甚大な被害を受けました。これを受け秀吉は,翌年の慶長二年(1597)に,近隣の木幡山を中心として新たに城を築きはじめます(Ⅲ期)。この際,城下西側を中心に武家屋敷や商工業者が集まる城下町の整備も行いました。秀吉は晩年をこの再建した城で過ごし,慶長三年(1598)に生涯を閉じます。その後,慶長四年(1599)に徳川家康が入城します。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の前哨戦で主要な建物は焼失しますが,同年の関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康により,翌年(1601)には伏見城の再建が始められ(Ⅳ期),慶長八年(1603)には征夷大将軍宣下をこの城で受けます。元和元年(1615)の大坂夏の陣豊臣氏が滅亡し,伏見城は城郭としての役割を終え,元和九年(1623)に廃城となります。廃城の際には,石垣一石まで破却せよとの厳命が下ったため,構築物は残っていませんが,現在でも地形や一部残存する石垣などから当時の伏見城の様子を窺い知ることができます。
 廃城後は,奉行所などの一部機関を残し,周辺の武家屋敷もその役目を終えます。明治二二年(1889)に伏見町が成立し,明治四五年(1912)に明治天皇陵の築造が行われています。また,明治四一年(1908)から終戦まで,京都師団工兵第 16 大隊が伏見桃山に駐屯していました。1960 ~ 70 年代に観月橋団地が建てられ,現在の風景が形成されます。
 今回の調査地は,『伏見御城郭並武家屋敷取之絵図』(桃山城所蔵)上では,初代唐津藩主「寺沢広高」,もしくは相国寺の僧侶である西笑承兌を示す「泰長老」の記載がある場所に相当します。  (「伏見城跡・指月城跡 – 京都市」より)]

伏見・指月城の復元 – 京都市埋蔵文化財研究所

国立国会図書館デジタルコレクション – 伏見桃山御殿御城之画図」[明治14年に復刻された豊臣秀吉時代の伏見城及び各大名屋敷地の絵図で、絵図中央右方向・観月橋(豊後橋)左上に「寺澤志摩守」、「泰長老」が描かれています。]

指月城跡 – Google Map 画像リンク

桃山町泰長老

カメラ北東方向が伏見城跡・指月城跡発掘調査地点です。