妙教寺(淀古城跡・戊辰役東軍戦死者碑)

マーカーは妙教寺です。

妙教寺
[豊臣秀吉の側室・淀殿の産所となった淀古城跡推定地の一角に、1626年に建立された法華宗の寺院です。寺の南側にある水路は淀古城の堀跡とされ、周辺には「北城堀」など城に関する地名が残ります。1868年の鳥羽・伏見の戦いで激戦地となり、本堂には砲弾の貫通跡が残されています。  (「36.淀城跡 納所 水垂 – 京都市埋蔵文化財研究所」より)]

淀古城
[淀古城(よど こじょう)は、京都府京都市伏見区木津宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたりに築城され、3面を川に囲まれた天然の要害で、古くからの商業地「」の中核都市であった。
この城の文献上初見は『東院年中行事』の文明10年(1478年)8月1日に“山城守護代遊佐弾正の代(中略)神保与三佐衛門淀へ入部す”—東院年中行事
とあり山城守護所として記されている。
1582年(天正10年)6月の本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したと記録され、秀吉と光秀の山崎の戦いでも利用された。秀吉の天下となってからは、1589年(天正17年)3月に、秀吉の弟豊臣秀長が淀古城を改修し、秀吉が側室茶々に与え産所とした。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴松が産まれるが、1591年(天正19年)に死去してしまった。
鶴松が死亡した後は、甥の秀次が秀吉の養子となるが、淀殿が秀頼を産むと秀吉と軋轢が生じ、1595年(文禄4年)、切腹。家老でこの城の最後の城主であった木村重茲も連座、城も廃城となった。
淀古城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成・wikipedia-photo、妙教寺の山門/淀古城の石碑がある・wikipedia-photo、「納所北城堀の標札。地名が僅かにその面影を留めているのみ。」・wikipedia-photo、淀古城の石碑・wikipedia-photo  (wikipedia・淀古城より)]

[妙教寺(みょうきょうじ)は法華宗真門流の寺である。
大圓山妙教寺は、宝泉院日孝を開山とし、大阪の富豪であった法華又左衛門貞清が開創。寛永年間に、当時の淀城松平定綱が寺地を寄進し、寺域を整備した。鳥羽・伏見の戦いで被災し、境内に戦死した幕兵の碑がある。
建造物
●本堂 – 寄棟造り。天保11年(1840年)建立。wikipedia-photo、「本堂、戊辰戦争の砲弾侵入穴」・wikipedia-photo、砲弾が貫いた柱・wikipedia-photo
●門・wikipedia-photo
●妙見堂・wikipedia-photo
●庫裏
●鐘楼・wikipedia-photo
小満・小女郎
かつて妙教寺には、住職により小満・小女郎と名付けられた夫婦狐が住んでいた。 ある時小満・小女郎は勝手に寺の買物帳を持ち出して綿を買い、子狐に着せたり床に敷いたりしていたが、住職に気づかれ寺を追い出される事となった。
狐たちはまっすぐ鳥羽街道を京へ上ったが、食うものもなく子連れの難儀さに、とうとう千本御池あたりで小満は倒れてしまった。 その地の貧乏な老夫婦に助けられた狐たちは、お礼にせんべいを作って売るように老夫婦に勧めたところ、美味しさから飛ぶように売れ、老夫婦は出世し金持ちとなった。 この経緯が京に広まり、出世稲荷と名付けられた社が作られ、小満・小女郎は稲荷のお使いとして崇められるようになった。 その後、夫婦狐は住職の夢枕に立ち、昔の罪を詫びるとともに、今後は寺の鎮守として寺を守ることを誓ったという。
妙見堂の前に、妙教寺鎮守小満小女郎の塚が築かれている。小満小女郎の塚・wikipedia-photo  (wikipedia・妙教寺_(京都市伏見区)より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 淀惣絵図(成立推定 近世前期写)」[内容より淀藩主が永井氏時代の絵図で、寛永10年以後、寛文9年以前。淀の大橋と小橋が描かれるので、寛永16年以後。城郭内の北側に「亀之介様」(虫損あり、推読)あり、尚征(尚政の子)の子で、後に一門で摂津高槻城主永井直時の養嗣子となる直種か(万治元年生)。概ね寛文初年頃の成立か。やや後年の転写本か。](絵図中央に淀小橋が描かれ、その左方向納所町上に妙教寺が描かれています。)

妙教寺 – Google Map 画像リンク」、「淀古城跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向小路が妙教寺参道です。

妙教寺山門前のカメラです。

カメラ西北西方向に「納所北城堀の標札」が掲げられています。(Google Maps)

戊辰役東軍戦死者碑
[この碑は、慶応4(1868)年正月に勃発した鳥羽伏見戦の東軍(幕府側)戦死者の招魂碑である。
 明治40年に東軍戦死者四十年祭典が京都十七日会により挙行され,あわせて15基の碑が建立された。十七日会は徳川家康の命日である十七日(元和2年4月17日)にちなんだ,徳川家恩顧者の会である。
 碑はふたつのカテゴリーにわけて建立された。一は「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻んだ3基の招魂碑(この碑もそのひとつ)。一は「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻んだ12基の碑(墓石)である。それぞれのカテゴリー内の碑は同一形式で,刻まれた文字も表題部は同じ。招魂碑は榎本武揚書。
 3基の招魂碑に記された埋骨地碑は,伏見町悟真寺内招魂碑が同寺内2か所。納所村妙教寺内招魂碑が悲願寺墓地・愛宕茶屋・八番楳木。淀町長円寺相招魂碑が同寺内・光明寺墓地・大専寺・文相寺・東運寺・八幡番賀。
 上記の埋骨地碑を合計すると11基になるが,長円寺内には2基の埋骨地碑が現存するから,所在は10か所で碑は12基ということになる。招魂碑・埋骨地碑計15基は百年以上たった現在もすべて当初の建立地,あるいはその近辺に残存し,希有な例として注目できる。いしぶみデータベースには15基すべてを収録した。その一覧はここ
 なお,この建碑事業の経緯は京都十七日会編『戊辰東軍戦死者四十年祭典及墓標建設報告書』(1907年同会刊)に詳しい。
所在地 伏見区納所北城堀(妙教寺内)
位置座標 北緯34度54分35.8秒/東経135度43分08.9秒(世界測地系)
建立年 1907年
建立者 京都十七日会
寸 法 高175×幅30×奥行30cm
碑 文
[西]
戊辰之役東軍戦死者之碑
[東]
子爵榎本武揚書(印)(印)【印文「武揚之章」「梁川」】
[南]
明治四十年建 京都十七日会
[北]
戦死者埋骨地三所一在下鳥羽村悲願寺墓地一
納所村愛宕茶屋堤防一八番楳木
調 査 2015年8月31日  (「HU036 戊辰役東軍戦死者碑 – 京都市」より)]