撞木町廓碑

マーカーは撞木町廓碑です。

撞木(しゅもく)町廓碑
[撞木町遊廓は,慶長9(1604)年渡辺掃部・前原八右衛門の両名により開設された。伏見の発展と共に元禄期(1688~1704)全盛を迎え,赤穂浪士を率いる大石良雄(1659~1703)が敵方の目を欺くため,この地で遊興したことで知られる。この碑は,撞木町遊廓の跡を示すものである。
所在地 伏見区撞木町
位置座標 北緯34度56分45.2秒/東経135度45分53.9秒(世界測地系)
建立年 1918年
建立者
寸 法 高140×幅70×奥行21cm
碑 文
[南]
橦木町廓之碑 【篆額/「橦」字原碑ノママ】
絶世の英雄豊太閤伏見城を築くに及び伏見の殷賑は一躍して天下の中
枢となれり当遊郭は此殷賑時代の創設にかゝり慶長元年林又五郎なるもの 【「五」字「一」ノ誤カ】
伏見田町に遊郭を起したるを其前身とし伏見落城後幾くもなく廃滅に帰せしかば
渡辺掃部前原八右衛門の両名は時の伏見奉行長田喜兵衛芝山小兵衛に請ひ慶
長九年十二月二日富田信濃守邸址を開地して再興す花街の形状撞木に似
たるにより撞木町の名あり実に今を距る三百十四年の昔なり其後
幾盛衰を経たるが元禄宝永の頃は最も繁栄せしものゝ如く各書には都に近
く島原の流れを汲めるにより鄙びずと嘗て京都の公家衆の多数が屡々来遊せし
事をも載す殊に赤穂義士大石良雄が敵を欺く佯狂苦肉の一策として
当遊郭笹屋清左衛門方に遊興せることは人口に膾炙せられ義士の名と
ともに撞木町の名は天下に伝はり且義士が此処に復讐の謀議を凝らして
目的を達せるより後来当遊郭に於て謀議する時は何事も成就すべしとて
来遊する人々多しと云
大正七年十一月 高橋桃城誌
遊雲散士書
[北]
西島留■【吉カ】
世 高倉 稔
話 福岡音次郎
人 尾川平五郎
木村秀次郎
調 査 2002年2月13日  (「HU051 撞木町廓碑」より)]

大石良雄遊興地よろづや
[大石良雄(1659~1703)は,播磨国赤穂藩主浅野家家老で通称内蔵助。元禄14(1701)年主君浅野長矩(1665~1701)が吉良義央(1641~1702)に江戸城中で刃傷に及び,切腹を命じられ,領地は没収された。大石良雄は赤穂藩再興をはかったが受け入れられず,山科に閑居し,伏見撞木町で遊興に耽るとみせて吉良邸討ち入りを画策したと伝える。この石標は,伏見撞木町よろづやの跡を示すものである。
所在地 伏見区撞木町
位置座標 北緯34度56分45.7秒/東経135度45分55.3秒(世界測地系)
建立年 1924年
建立者
寸 法 高78×幅30×奥行19cm
碑 文
[南東]
大石良雄
よろつや
遊興之地
[北西]
大正十三年十二月十四日(印)(印)
調 査 2002年2月13日  (「HU029 大石良雄遊興地よろづや」より)]

都林泉名勝図会」・巻之三 墨染里巻之三 墨染里解説

カメラ位置は伏見街道(師団街道)で、カメラ西方向が撞木町廓になり、手前に入り口になる二本の門柱があります。

カメラ北西方向・電柱右に「大石良雄遊興地よろづや碑」があります。

カメラ北東方向が「撞木町廓碑」です。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

*