桃山町永井久太郎(伏見城武家屋敷石垣)

マーカーは発掘調査地です。

桃山町永井久太郎
[桃山町永井久太郎 – 京都府京都市伏見区の町丁。永井直勝(永井右近大夫屋敷跡)と堀久太郎秀治に由来する。桓武天皇の柏原陵がある。  (wikipedia・永井久太郎より)]

[豊臣秀吉が築いた伏見城京都市伏見区)の城下町だった区域で、武家屋敷の石垣や溝が見つかり、京都市が5日、発表した。屋敷の配置を示した史料から、土佐藩藩主として知られる山内一豊か、織田信長の側近だった堀秀政(久太郎)一族の屋敷跡と考えられるという。  (「伏見城武家屋敷の石垣見つかる 土佐・山内一豊の … – 西日本新聞」より)]

下記は、桃山町永井久太郎周辺での「京都市埋蔵文化財研究所 – 新発見!伏見城城下町「正宗」の武家屋敷」による発掘調査地点と一覧表で、9(平成10年度京都市埋蔵文化財調査概要 26 伏見城跡 P117-P121)、10(昭和61年度京都市埋蔵文化財調査概要 40 伏見城跡 P107-108)、11(昭和 53 年度京都市埋蔵文化財調査概要78 伏見城跡3 P189-190)、13(昭和 63 年度京都市埋蔵文化財調査概要 52 伏見城跡1P128)が桃山町永井久太郎の過去の発掘調査です。上記の発掘現場は「図1」の13のすぐ上になります。その他のポイントは「京都市埋蔵文化財研究所(年報)」を参照してください。

パンフレット・旧伏見城域 – 京都市」[パンフレット・伏見桃山地区の発掘調査の「②桃山町永井久太郎」が 「図1」の13に当たります。「①桃山町永井久太郎」は「図1」の9ラインの上板橋通り/伊達街道交差点南東角になります。]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 伏見図(成立推定 近世中期写)」(絵図中央・城郭下に「堀久太郎上屋敷」「堀久太郎上屋敷」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 伏見桃山御殿御城之画図」(明治14年に復刻された豊臣秀吉時代の伏見城及び各大名屋敷地の絵図で、絵図中央付近に「堀久太郎」「同下屋敷」「山内土佐守」と描かれ、そのエリアの下「同下屋敷」「山内土佐守」の境付近が調査地と思われます。)

堀秀治
[堀 秀治(ほり ひではる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越後福嶋藩の初代藩主。堀秀政の長男。
天正18年(1590年)、父・秀政とともに小田原征伐に参陣したが、父が陣中で病死したため、家督を継ぐこととなった。11月6日、父同様に豊臣姓を与えられる。
文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に参陣する。文禄2年(1593年)には伏見城工事に貢献した。
慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去すると徳川家康に接近し、一族の堀直重を人質として江戸に送った。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、それ以前の4月に直江兼続の密命で越後国内で発生した上杉旧臣・神官・僧侶の一揆を鎮圧した(越後一揆、上杉遺民一揆)。戦後、その功により家康から所領を安堵された。
慶長11年(1606年)5月に31歳で死去し、跡を嫡男の忠俊が継いだ。  (wikipedia・堀秀治より)]

カメラ東北東方向が発掘調査地で、カメラ南南東方向が「図1」の13になります。

桃山町永井久太郎の名称は永井直勝(永井右近大夫)と堀久太郎秀治に由来する。桃山町永井久太郎の範囲は伏見桃山御殿御城之画図の「永井右近大夫」「松平大隅守」「松平伊豆守」「山内土佐守」「堀久太郎」「同下屋敷」から城郭迄の範囲になります。