榮春寺(伏見城の土塁遺構)

マーカーは榮春寺です。

[榮春寺
 泰澄山と号し、永禄十一年(一五六八)、道元禅師が越前に移住後、京・伏見で最初の曹洞宗寺院として、勅特賜昼普光錦禅師孝蒲伝和尚により開創された。
 現本堂は、天保十年(一八三九)の改築、本尊は伝泰澄大師作の釈迦如来座像であり、徳川家康の家臣であった酒井重勝が寄進したものである。観音堂は、文化十一年(一八一四)の建立で、西国三十三所観音と聖観音を祀る。総門は伏見城の遺構である。
 後丘の墓地は、豊臣秀吉の伏見城城下町の惣構えの土塁の遺跡で、中央に江戸時代の代表的兵学者、長沼宗敬澹斎の墓と、文化三年(一八〇六)会津藩主建立の巨石の碑誌があり、撰文は大学頭林述斎によるものである。会津藩と寺は、幕末まで交流があった。
 寺内には、福山藩主寄進の澹斎画像と澹斎の主著「兵要録」全五篇をはじめ関係資料を蔵している。
    京都府  (「榮春寺案内板(画像リンク)」より)]

[まず迎えてくれるのが、伏見城の遺構である総門です。そこからさらに奥へと入り、本堂を横目にお墓が並ぶ丘の方へと進むと、伏見城の土塁らしきものが竹林の間に見えてきます。土塁とは、お城の堀を固めている大きな土盛りのことです。竹は「孟宗竹(もうそうちく)」という種類で、今ではわずかしか残っていませんが、土塁を守るために植えられていたと考えられています。
丘を登りきるとお墓が広がっており、その周囲の一辺を守るように土塁があるのに気が付きます。伏見城の土塁とは、その幅ぐらい奥行きのあるもので、高さも登ってきた丘ぐらいあったそうです。平屋がほとんどだった当時としては、土塁だけでも巨大な建築物だったことがうかがえます。まさに大きな権力の象徴だったのでしょうね。
時代は移り、徳川家江戸幕府に基礎を固めた三代目の時代になると、豊臣秀吉の権力の象徴ともいえる伏見城は、廃墟にするよう指令が出されます。しかし、栄春寺の土塁については墓地の一部であったことからか、役所で残すことを受理されました。一度役所で受理されたものが変更されないのは今も昔も変わらないようで、長く続いた江戸幕府の時代においても壊されることなく残されたのです。伏見城の建造物などの一部は、二条城などに移築されていますが、伏見城の土塁は同寺でしか見ることができない貴重なものになっています。  (「第173回 泰澄山 栄春禅寺 – ちょっと言いたくなる 京都通 : 宇治茶 伊藤久 ..」より)]

[市立桃山中学校の北部に位置する榮春寺のある地は、木幡山(現在の桃山)の西北麓にあたり、木幡山の東南麓は、曹洞宗の高祖道元禅師が生まれた山荘が存在したとされています。
 榮春寺は、伏見に初めて建てられた曹洞宗の寺院であり、開祖には傳養(でんよう)和尚が迎えられました。
 また、亡き妻の菩提を弔うため、お堂造営に尽力したと言われている酒井作右衞門重勝(さかいさくえもんしげかつ)は、徳川家康の家臣であり、伏見城代を務めました。
 榮春寺の総門と、本堂西隣に位置する観音堂は、伏見城の遺構と伝えられており、中でも、観音堂の格天井は、「伏見城の血天井」のひとつであるといわれています。
 榮春寺の後丘には、和洋漢の長所を探り、鉄砲や海防についても論じた江戸時代の代表的な兵法学者長沼宗敬澹齋(ながぬまそうけいたんさい)の墓が静かに存在し、墓の横には、彼の兵法を採用したとされる会津藩主が建てたと言われています顕彰碑が静かに佇んでいます。  (「ふしみ昔紀行(平成19年1月) – 京都市伏見区役所:伏見区あれこれ」より)]

新発見!伏見城城下町「正宗」の武家屋敷 – 京都市埋蔵文化財研究所

国立国会図書館デジタルコレクション – 伏見桃山御殿御城之画図」(明治14年に復刻された豊臣秀吉時代の伏見城及び各大名屋敷地の絵図で、絵図中央左方向・堀右の町屋下側が榮春寺だと思われます。)

泰澄山 栄春寺 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向が榮春寺参道先が榮春寺総門で、総門は伏見城の移築城門になります。

カメラ南方向崖上が榮春寺墓地で、崖は伏見城の土塁になります。(2016年9月画像・Google Maps)