毛利安芸守屋敷跡

マーカーは毛利安芸守上屋敷跡です。

[「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 伏見図(成立推定 近世中期写慶長年間1596年-1615年)」の絵図城郭下方向、松平参河守様左下に毛利安芸守、その下に毛利安芸守下屋敷が描かれています。毛利安芸守は毛利輝元を指します。)

毛利安芸守屋敷跡
[3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、今まで行われた発掘調査の概要について説明されていましたが、府立桃山高校構内の発掘調査についても述べられていました。
 「毛利安芸守の上屋敷や蜂須賀阿波守の屋敷地推定地。安土・桃山時代の大規模な礎石建物が検出。調査地西半分で最大2メートルの大規模な造成土と、遺構面を2面確認。屋敷地の西側には、南北方向の石垣や堀が想定され、これに伴う大規模造成土の一部が確認されたものといえる」(特別研究集会資料集)と。
 毛利安芸守は毛利輝元、蜂須賀阿波守は蜂須賀家政のことですが、豊臣期木幡山伏見城の城下町推定復元図(山田邦和氏作成)によると、毛利輝元上屋敷のすぐ南に蜂須賀家政の屋敷があり、毛利輝元上屋敷のすぐ西隣に毛利輝元下屋敷があります。  (「三成の実像2267 「特別研究集会」46 奥井氏「伏見城跡調査成果」6 毛利 」より)]

毛利輝元
[毛利輝元は、天正19年(1591年)3月、豊臣秀吉より知行目録を与えられ112万石の所領を安堵された。
文禄元年(1592年)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵にも、主力軍として兵3万を派遣。秀次事件後の文禄4年(1595年)には従三位中納言となり、安芸中納言と称された。
慶長2年(1597年)、秀吉より五大老に任じられた。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。
輝元は従兄弟である秀元穂井田元清の子)を養子にしていたが、実子の秀就が生まれたために秀就を後継者とする代わりに秀元にも所領を分け与えることを考えた。豊臣政権の取次であった石田三成は秀元に吉川広家の所領である伯耆出雲隠岐を与えて広家を宙に浮いていた小早川隆景の遺領に移す案を作成した。吉川氏の勢力を削減する意図をもっていた輝元は瀬戸内海の要所である三原を広家に与えることに難色を示して代替地を備中にする意向を示し、秀元も長門を与えられることを希望し、所領を移される広家は元よりこの提案内容に反発し、三者三様の反対をしたにも関わらず、慶長4年(1599年)1月に三成は広家の代替地の決定を先送りする形でこの案を押し切った。だが、直後に三成が失脚すると、徳川家康が決定の見直しを行い、同慶長4年(1599年)6月になって秀元には長門を与えて広家の所領をそのままに、隆景の遺領は毛利家にそのまま返還されることになり、輝元・秀元・広家ともにこの案を受け入れた。
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による対立がついに武力闘争に発展した。6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。
7月17日、家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸を接収し、輝元が入城した。その後は三成に擁立された西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させる。
しかし、三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂島津義弘や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去したのである。
岐阜城の落城の後で、輝元は家康率いる東軍と輝元率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家に頼み、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑えたり福原広俊が秀元の出馬を諫めたりする結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍を指揮した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし井伊直政が家康に不義を訴えたため、輝元は隠居のまま、秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵とする形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の29万8千石に大減封となった。  (wikipedia・毛利輝元より)]

京都府埋蔵文化財情報 – 京都府埋蔵文化財調査研究センター – 19 伏見城跡 P34」、「京都府埋蔵文化財情報 – 京都府埋蔵文化財調査研究センター – 24 伏見城跡 P38

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 伏見図(成立推定 近世中期写)」(絵図中央・城郭右下方向、松平参河守様下に毛利安芸守、その下に毛利安芸守下屋敷と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 伏見桃山御殿御城之画図」(明治14年に復刻された豊臣秀吉時代の伏見城及び各大名屋敷地の絵図で、絵図中央付近・「松平駿河守 徳川様御屋敷」下に「モリ安藝守」と描かれているのが毛利安芸守上屋敷で、その下「森安藝守下屋敷」が毛利安芸守下屋敷と思われます。「モリ安藝守」「森安藝守下屋敷」地は現在「桃山毛利長門西町」「桃山毛利長門東町」となっています。)

カメラ南方向は毛利安芸守上屋敷跡に建つ京都府立桃山高等学校です。