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石峯寺
[石峯寺(せきほうじ)は京都市伏見区にある寺院。宗旨は黄檗宗。山号は百丈山(ひゃくじょうざん)。本尊は釈迦如来。石峰寺とも表記する。
正徳3年(1713年)、黄檗山大本山萬福寺の第6世千呆性侒(せんがいしょうあん)が開創した。石峯寺は平安時代中期に摂津国多田郷に建てられた沙羅連山石峰寺に発するという。兵火に遭い、寺は焼亡したが、本尊の薬師如来像は土中から慶長元年(1596年)に発見されたとされ、京都五条大橋東あたりの祠に祀られていた。この薬師如来を尊崇する千呆和尚が、正徳3年、いまの深草の地に移したという。その後2度の本堂焼失により現在は釈迦如来になっている。なお寺号の表記は、石峯寺、石峰寺ともに用いる。
寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、絵師の伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職と協力して制作したもので、「若冲五百羅漢」としていまも親しまれている。また観音堂の格天井には若冲が天井画を描いた。しかしこれらの絵は明治期はじめ、廃仏毀釈の嵐のなかで処分され、いまは他寺に現存している。若冲は寛政12年(1800年)9月10日、85歳の生涯を石峰寺門前の自宅で閉じ、同寺に葬られた。当寺には若冲の墓があり、毎年9月10日に若冲忌を営んでいる。
伊藤若冲による石峯寺庭園図・wikipedia-photo(ヴィクトリア国立美術館蔵)
Google Art Projectでのアーティストの詳細
石峯寺山門前参道・wikipedia-photo
石峯寺山門・wikipedia-photo
石峯寺本堂・wikipedia-photo
(wikipedia・石峯寺_(京都市)より)]
[伊藤若冲晩年
1788年(天明8年)の天明の大火で、自宅を焼失する。大火で窮乏したためか、豊中の西福寺や伏見の海宝寺で大作の障壁画を手がけ、相国寺との永代供養の契約を解除する。晩年は伏見深草の石峯寺に隠遁、義妹(末弟宗寂の妻)心寂と暮らした。そのため若冲の墓は、上京相国寺の生前墓の寿蔵と、石峯寺の2箇所にある。若冲は85歳の長寿を全うするまでに多くの作品を残したが、晩年、石峯寺の五百羅漢石像(通称:若冲五百羅漢。)や天井画などの制作に力を注ぎ、没後、同寺に土葬された。のちに枡源7代目の清房が、若冲の遺言に従い、墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書いている。 (wikipedia・伊藤若冲より。)]
「石峰寺 – 京都伏見 黄檗宗百丈山 五百羅漢ホームページ」
石峯寺資料リンク
「都名所図会」・「巻之五 前朱雀再刻 百丈山石峰寺 (石峰寺)」、「巻之五 前朱雀再刻 百丈山石峯禅寺 (石峰寺)解説」
百丈山石峰寺 (石峰寺)(拡大図)
「石峰寺 山門 – Google Map 画像リンク」、「石峰寺(石峯寺) – Google Map 画像リンク」
カメラ東方向が石峯寺参道です。
石峯寺境内のカメラで、カメラ初期設定方向が本堂、反転すると山門があります。
本堂前のカメラです。