角倉了以水利紀功碑

マーカーは角倉了以水利紀功碑です。

角倉了以水利紀功碑
[角倉了以(1554~1614)は,国内諸河川の開発整備に従事し,慶長11(1606)年に大堰川・淀川・富士川を疎通させた。慶長16(1611)年,二条より鴨川の水を引き伏見に達する高瀬川を開削し,京都伏見間の水運を開通させた。この碑は高瀬川を開いた了以の功績を顕彰するために運漕業者有志が建立したものである。
所在地 伏見区三栖半町(伏見みなと公園内)
位置座標 北緯34度55分48.1秒/東経135度45分20.3秒(世界測地系)
建立年 1899年
建立者 (有志)
寸 法 (主碑)高約320×幅184×奥行35cm(副碑)高129×幅120×奥行24
碑 文
[主碑東]
角倉了以翁水利紀功碑
京都府知事従三位勲三等内海忠勝書(印二顆)【「内海忠勝」「号天湖」】
[主碑西]
角倉了以翁水利紀功碑
伝曰太上立徳其次立功立徳最難立功不易況偉績著当時利沢施後昆者乎如」
角倉了以翁其克立功者耶翁以名門支族洛西富豪長於経済尤明水理相地勢」
測高低鑿険夸阻激者漫之浅者深之舟揖可遣漕路開通近時官追賞其功賜以」
金円曰疏鑿諸川投資財督工事開水陸運輸之便以興国家之鴻益其功績明著」
矣如吾京都高瀬川是其一也初豊臣氏之再建大仏也艱運搬翁建議頼水力以」
曵巨材観者偉之慶長十六年更請徳川幕府開長渠於鴨川北起二条南達伏水」
長約弐千七百五拾四丈広約弐拾壱尺設閘量水以制流勢定綱規置吏徒以管」
事務凡運於京都者關東由逢坂關西由此渠逢坂道路険悪牛斃車敗運輸甚苦」
此渠則平川溶溶深浅有常*船百艘舳艫相銜耶許之声数里不絶出入貨物山」
積阜堆若一日不通則京都物価為之騰貴幕府喜其功特召延見専管其事者殆」
三百年高瀬之利被於京洛而角倉氏益栄居然素封誠可謂盛矣維新之初旧物」
悉革而角倉氏之業亦罷加之鉄軌交通運搬益開而此渠則依然不廃伏見*主」
等相共継其業仍為京都漕運之咽喉為之衣食者亦不下数百人豈非偉績著当」
時利沢施後昆者耶於是*主等胥謀欲建石於其会所之旧址以永紀其事来謁」
題及文於予按了以当干戈未#海内凋弊之秋深用心於経世公益以開通水利」
克建此業而利吾京都者最多矣其功豈可没乎哉*主等不以時勢変換而忘其」
旧恩能成此挙是亦可嘉矣故予不敢辞為題其碑且作之文至其世系及他事業」
則道春先生所撰碑文既備此不復贅鳴呼世之観此碑者其可以感興矣
明治三十二年十二月 京都府知事従三位勲三等内海忠勝
京都府属山田得多書  (「HU141 角倉了以水利紀功碑 – 京都市」より)]

カメラ東南東方向、樹木右に角倉了以水利紀功碑があります。