魚市場遺跡碑

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魚市場遺跡碑
[この地横大路は,昔より草津湊として難波より京都への要衝として栄えた。豊臣秀吉 ( 1536~98 ) の伏見築城により生鮮魚貝類を商う問屋が軒を並べた。慶応元 ( 1865 ) 年徳川幕府が魚市場公設を命じ,大橋孫四郎が経営に当り同業者が続出して賑わった。明治 10 ( 1877 ) 年京都~神戸間の鉄道開通と共にその機能を失い衰退した。この石標は魚市場の跡を示すものである。なお,大正 8 ( 1919 ) 年に建立された原碑は,昭和 21 ( 1946 ) 年の地震で倒壊した。現在の碑は昭和 60 ( 1985 ) 年に再建されたものである。
所在地 伏見区横大路草津町(羽束師橋東詰南)
位置座標 北緯34度55分43.7秒/東経135度44分04.5秒(世界測地系)
建立年 1985 年(原碑 1919 年)
建立者 魚市場遺跡碑再建委員会
寸 法 高 214 × 幅 112 × 奥行 41 cm
碑 文
[北西]
魚市場遺跡【題額】
我横大路邨は往昔草津の湊と称す浪華より平安に通するの要衝にして平安奠都以還東西行客の来往織るか如く豊公居を桃山にトすると共に百資聚散の枢区となり大小数千の問屋甍を接して盛に之か配給を司れり殊に生魚の如きは近くは摂播泉遠きは紀阿淡方面よりし曳船数十隻徹宵澱江を溯り艤操搬運許邪の声之に和して我横大路村に集るや陸路健脚の壮夫を駆て担荷之を運搬し絡繹常に絶ゆるなく禁裏御所を始め洛中洛外より近畿各地の給需に便せり慶応元年徳川幕府より一大魚市場の公設を命せらるゝや大橋孫四郎氏率先之か経営の衝に当り同業者続出一村為に殷賑を極めたりしか明治十年京都神戸間銕路開通の議あるや一村興廃之か因たらんと大橋仁兵衛奥島八郎兵衛両氏深く之を憂ひ百方輓回の策を講せるも時代の趨勢亦奈何ともする能はず両氏意を決し慨然涙を呑て京都七条駅頭に魚市場を開設す銕路既に成り物貨の運輸は果して両氏先見の如く総て文明利器の吸集する所となり曳船の運送忽ち衰頽すると共に魚市場も亦其跡を滅するに至れり豊公治世以来百貨聚散之か呑吐の中心地として三百有余年間旺盛を誇りし我横大路村は今也麦隴菜圃の一農村と化し去り復往時を夢想するものなきに至れり滄桑の変古来其例に泛しからず時勢の変遷蓋し已むを得さる所なりと雖転々隔世の感なしとせず歳遷ると共に之が遺跡の湮滅せんことを憂ひ大橋一家相謀り喜平治翁の在世を幸に之が事歴を審かにし此碑を建て以て永く後昆に示さんとす 洛陽僑人的場正三郎撰書
[南東上段]
伏見区横大路は平安京の昔より草津の港として栄え、明治十年京都、神戸間に鉄道が開通するまで一千年の永きに亘り、水上交通の要衝として東西行客の来往盛んとなり、京への生鮮魚介類の輸送もここを集散の場として賑いをみせていたしかし鉄道の開通はこの魚市場を廃虚と化し、その伝統は現在の中央卸売市場に受け継がれているが、旧跡をしのんで大正八年四月大橋家により魚市場遺跡碑が建てられた。しかしその後の荒廃により京都市中央卸売市場の水産小売業者をはじめ、業界関係者の発起、厚志により、この地に魚市場遺跡碑が再建された
昭和六十年六月
魚市場遺跡碑再建委員会
委員長 山田定一
[南東下段]
京都水産物小売団体連合会 会長 山田定一 【次項・次々項も兼ぬ】
京都水産物商業協同組合 理事長
京都海産物買出組合 組合長
京都水産物商業協同組合 副理事長 増田治一 【次項も兼ぬ】
京都乾友会 会長
京都魚菜酢商協同組合 理事長 大八木泰蔵
京都錦水産物協同組合 理事長 桑山皓 【次項も兼ぬ】
京都水産物商業協同組合 副理事長
京都府寿司環境衛生同業組合 理事長 荒木信次
京都蒲鉾商組合 組合長 池内常郎
京都水産物商業協同組合 副理事長上京支部長 直海真十郎
同 副理事長南支部長 山根義次
同 副理事長左京支部長 山本光蔵
同 北支部長 黒田幸男
同 中京支部長 渡辺正利
同 下京支部長 西村太一
同 右京、西京支部長 中山健治
同 東山支部長 高田亮太郎
同 山科支部長 西田宗治郎
同 伏見支部長 水谷勉
同 都水産協和会会長 吉田春一
同 公設塩乾公友会理事長 野田佳■
順不同
[台座]
(印)
魚魂
大悲山亘令書(印)(印)
京都水産団体
連合会
会長 山田定一
調 査 2002 年 2 月 14 日  (「HU003 魚市場遺跡碑」より)]

魚魂碑
[江戸時代に、現在の京都市伏見区横大路に魚市場があったことを示す石碑。
草津湊は、平安時代から旅人やさまざまな物資の輸送に利用されていたが、魚市場は豊臣秀吉の時代から、明治 10 年に神戸・京都間に鉄道が開通が開通するまで、約 300 年間賑わっていた。瀬戸内四国和歌山方面から魚を積んだ大型の曳き船は、淀川桂川をさかのぼり草津湊で荷揚げされた。荷揚げされた生魚は、走りとよばれる仲仕によって京の都に運ばれた。このことは魚や野菜の初物を「走り」とよぶ語源とされている。夏の京都を代表する食材にがあるが、鱧は生命の強い魚なので、夏も生きたままで京都に届けられ珍重された。
明治 10 年の鉄道開通後、草津湊が衰退したことから、魚市場は 1888 年に京都の七条の京都駅に付近に移転したが、大正 8 年( 1919 年)に、魚市場があったことを示す記念碑が、魚市場運営の中心であった大橋家により建設された。その後、台風で倒壊したが、昭和 60 年( 1985 年)に京都水産物小売工業組合の有志により再建され、「魚魂」の文字が付加されている。 魚市場・草津湊があった。伏見区 横大路の地元では、鱧が運ばれたルートを鱧街道と命名し横大路まちづくりフェティバルとして、毎年秋に「桂川・草津湊はも街道まつり」を開催している。
所在地:京都市伏見区横大路、羽束師橋下流50m アクセス:京都電鉄中書島駅より市バス 22 横大路車庫下車、徒歩 10 分  (wikipedia・鳥羽街道より)]

魚市場跡 – Google Map 画像リンク

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