鳥羽伏見戦跡碑

マーカーは鳥羽伏見戦跡碑です。

鳥羽伏見戦跡
[大政奉還大坂城にいた徳川慶喜(1837~1913)は薩摩藩を討つため上洛を決意し,慶応4(1868)年正月3日,江戸幕府軍本隊を鳥羽街道伏見街道に分けて京都に進軍した。この地に布陣した薩摩砲兵の一隊と幕府軍の間で戦いが繰り広げられた。この石標は,翌年夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦跡,小枝橋を示すものである。
所在地 伏見区中島秋ノ山町(小枝橋東詰)
位置座標 北緯34度57分01.9秒/東経135度44分35.4秒(世界測地系)
建立年 1968年
建立者 京都市
寸 法 高115×幅18×奥行18cm
碑 文
    [南]
    鳥羽伏見戦跡
    [西]
    昭和四十三年十一月 京都市
調 査 2002年2月13日
備 考 京道/城南離宮【道標】(HU099)と並び立つ  (「HU025 鳥羽伏見戦跡」より)]

戊辰戦争
[慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。
新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦となった。翌1月4日も旧幕府軍の方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王征討大将軍と為し錦旗節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩迅衝隊胡蝶隊・断金隊などを編成し、錦旗を賜って官軍に任ぜられた。逆に旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により1月5日、淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。
この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡として認識された。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。  (wikipedia・戊辰戦争 – 戦闘の勃発より)]

鳥羽伏見の戦い勃発の地碑 – Google Map 画像リンク
 
カメラ西北西方向に鳥羽伏見戦跡碑があります。

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