鳥取藩池田家京衣笠屋敷跡(衣笠会館)

マーカーは衣笠会館です。

[既に油小路通下立売下ル東側に京屋敷を設けていた因州鳥取藩は、文久年間(1861年-1864年)に東堀川通中立売下ル東側に広大な屋敷を建設している。この屋敷は南北を中立売通と上長者町通、東西を東堀川通と油小路に限る凡そ1町四方の大きなものであった。この屋敷を建設するために松之下町通が消滅している(因州鳥取藩京都藩邸跡)。なお、因州鳥取藩はさらに元治元年にも北野大将軍の西側御土居を越えた場所に新屋敷を設けている。  (「薩摩藩邸跡(二本松): 徘徊の記憶」より)]

[衣笠会館の建設当初の立地をイメージしておきたい。現在の北野白梅町界隈は、西大路通今出川通京福電鉄北野線が交差する京都市街地西の要衝である。街並みは、この界隈から嵐山まで途切れ目無く続く。しかし、幕末にまで遡ると、地図は全く別世界を示している(「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 〈改正〉京町御絵図細見大成(1868年)」(絵図四つ切左上・大将軍社の左、薩州屋敷との間に因州屋敷が描かれています。))。会館の現在地は、「因州屋舗」と記された因幡池田屋敷の地図に重なる。黒く太い線で示された御土居を越えると、すぐ東に平安京造営にともなって創建された陰陽道の社・大将軍堂が位置し、現在に至るまで大内裏の北西角の天門を厄災から守っている。衣笠会館竣工当初も、ここは依然として西山まで広がる田地の一隅であり、明治 22(1889)年市制・町村制施行以降、大正 7(1918)年 4 月に京都市上京区に組み入れられるまでは、この地は京都府葛野郡衣笠村と称していた。また、現在の京福電鉄北野線は、季節を問わず修学旅行生や国内外の観光客を満載しているが、北野白梅町 – 高雄口(現宇多野)間が開設されるのは大正 14 年のことである。さらに、市域西端の南北幹線道路である西大路通も、都市計画道路として昭和 14(1939)年に開設されたにすぎない。  (「衣笠会館の棟札-藤村家洋館についての歴史的検証」より)]

[衣笠会館の歴史的位置づけについて                                                             
明治38年(1905)建築 国登録有形文化財
木・れんが造かわらぶき2階建
(平成17年 第26-0199号 文化庁)
所在地 京都市北区北野下白梅町29番地
衣笠会館は、平成24年4月1日、京都府知事より認定された公益財団法人 衣笠繊維研究所(旧財団法人 衣笠会 昭和25年設立)の活動拠点として利用していますが、もとは、明治時代、京都の基幹産業を担った機業家・藤村岩次郎氏が明治38年に普請した屋敷3,500坪の建物の自宅洋館部分に当たります。
藤村氏は、明治28年に「五二会京都錦ネル」(綿ネル株式会社 → 日本製布株式会社に変遷)の創業者の一人で、京都綿ネルは市内四か所に大工場を稼働し、斯界最大手の会社となりました。   
綿ネル機業の興隆を背景に、藤村氏は北野白梅町の広大な一角を占めていた因幡池田屋敷跡地に豪壮な屋敷を構え、明治44年頃、寒村であった衣笠村に衣笠園という住宅地も開発した実業家でもありました。繊維業界の命運、次代の変化の中で、藤村氏の屋敷は、和館も庭園も姿を消し、かつてのメインストリ-トであった一条通に面する洋館と玄関前の庭園一部を残すのみとなりました。
衣笠会館は、明治後期の接客スぺ-スとしての洋館の中で、構造の煉瓦をそのまま外観としている住宅建築としては希少です。百年以上たっても狂いのない堅牢さや旧尼崎紡績本社屋との様式的共通性とを考え合わせると、設計者は同社の煉瓦工場群と同一であると考えられます。内部は、簡潔ながら各部屋ごとに意匠の異なる暖炉を据えた洋室と伝統的意匠の和室が設けられ、西陣の機業家が集まったであろう往時を彷彿とさせる時代の証人といえる名建築です。
現在、会館を一般公開するとともに公益財団法人 衣笠繊維研究所が所有しています。  (「公益財団法人 衣笠繊維研究所」より)]

国際日本文化研究センター – [洛中洛外町々小名大成京細見絵図](元治元・1864年)」(絵図四つ切左上・御土居の左、一条と今小路の間に因州ヤシキが描かれています。)

国際日本文化研究センター – (内題)京都、(表題)京都15号 假製二万分一 京都(明治22・1889年)」(地図中央に大将軍村と記述されています。その下道が一条、上道が今小路になります。その間、天神川の左道から、左方向の河川までの間が鳥取藩池田家京衣笠屋敷跡になるのではないかと思われます。)

カメラ北方向が衣笠会館です。