実相寺

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実相寺
[正覚山と号する日蓮宗の寺院。本尊十界大曼荼羅日像上人の弟子、大覚大僧正妙実上人によって南北朝期に開創されたと伝えられる。寺伝によれば、南朝正平7年(1352)の夏大いに日照りしたとき、上人勅命をうけて、桂川は鍋ケ淵に於いて僧数百人を率いて請雨の御祈祷あったところ大いに験あり、南朝後村上天皇、三菩薩号と大僧正を勅賜され給う。後、北朝後光厳院より同じ綸旨を給う。本寺はその因縁によって創建されたとも伝えられる。祈雨に先だって妙実上人は日蓮大聖人の座像を作りお伺を立てられたところ三度点頭されたという。このように当寺は、開基妙実の勅願祈雨の旧跡ともいわれ、現在の本堂にある「日蓮うなずきの像」は慈雨のエピソードを伝えており、洛南における祈雨伝説と深いかかわりをもっていたことがうかがわれる。開創以後の實相寺の寺歴については明らかでないが、当寺はもと真言宗の寺院であったらしい。それは本堂に使われている丸柱や墓地から出土する旧い梵字入り卒塔婆などからも推定されることである。
中世末から近世初頭に於いて当寺は、妙覚寺の筆頭末寺、隠居寺になっていたが、慶長元年(1596)の太閤秀吉の千僧供養に端を発した日蓮教団の不受不施派、受不施二派の分裂に際しては、妙覚寺日奥の不受不施派に連座し、弾圧を受け、約50年間回復するところとならず、現在も18代以前の歴代名等は一切不明である。
のち妙覚寺が身延山支配の受布施派に転向したことによって回復の糸口を見つけた。『京都御役所向大概覚書』に「正徳六年申年、鳥羽實相寺本堂、為修復、相撲為取申度之旨相願候、右寺は朝鮮人来聴之節、休息所罷成候ニ付、願之通同年日数七日赦免」とあり、江戸時代中期には当寺が朝鮮人来聘使の休息所とされていたことが知られる。江戸時代には中本山格、寺中四か寺をえるまでになったが、明治8年、それまでに残っていた寺中の一か寺も水害で消失した。  (「正覚山実相寺の沿革」より)]

[室町時代に僧日像の弟子、妙実が創建。江戸時代の朝鮮通信使が、京に行く途中の休息所としたことが知られています 。境内には、江戸時代の街道の車石を使った車道が復元されています。  (「32 鳥羽作道 – 京都市埋蔵文化財研究所」より)]

日蓮宗 正覚山實相寺(京都上鳥羽)ホームページ

実相寺資料リンク
都名所図会」・「巻之四 右白虎再刻 実相寺」、「巻之四 右白虎再刻 実相寺解説
実相寺(拡大図)

[図会右ページ上に吉祥院天満宮 (吉祥院)、左ページ中央右に実相寺、その左境内に貞徳翁塚 (貞徳塚)、下道の中央下に地蔵堂 (廻地蔵・浄禅寺)、そこの左浄禅寺境内にこいつか (恋塚)が描かれています。]

實相寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が実相寺山門です。

カメラ北北西方向が、本堂と鐘楼です。

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