マーカーは詩仙堂です。
詩仙堂
[詩仙堂は徳川家の家臣であった石川丈山が隠居のため造営した山荘である。名前の由来は、中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間による。 詩仙は日本の三十六歌仙にならい林羅山の意見をもとめながら漢晋唐宋の各時代から選ばれた。肖像は狩野探幽によって描かれ詩仙の間の四方の壁に掲げられている。詩仙堂は正確には凹凸窠 (おうとつか) という。凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。 丈山は詩仙の間を含め建物や庭の10個の要素を凹凸窠十境と見立てた。
建築・庭園
寛永18年 (1641年)、丈山59歳の時に造営され、丈山は寛文12年 (1672年)、90歳で没するまでここで詩歌三昧の生活を送った。「小有洞」という門をくぐり、竹林の中の道を行くと、石段の上に「老梅関」という門があり、その先に詩仙堂の玄関がある。玄関上は3階建の「嘯月楼」となっており、その右手 (西側) には瓦敷の仏間と六畳、八畳の座敷、左手には四畳半の「詩仙の間」、「読書の間」など多くの部屋がある。このうち嘯月楼と詩仙の間の部分のみが丈山当時の建築で、他は後世の改築である。庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができ、特に春 (5月下旬) のサツキと秋 (11月下旬) の紅葉が有名で観光客で賑わう。縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見所のひとつ。一般にししおどしとして知られる、添水 (そうず) と呼ばれる仕掛けにより時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに静寂な庭のアクセントになっており丈山も好んだという。
詩仙堂書院六畳から見た庭園
詩仙堂茶室・残月軒
(wikipedia・詩仙堂より)]
石川丈山翁旧跡
[三河国出身の詩人石川丈山(1583~1672)は,徳川家康(1542~1616)の臣だったが,大坂夏の陣で先駆けを咎められ,浪人となり上洛した。藤原惺窩(1561~1619)の門に学び,一乗寺に庵を結び遁世した。その庵には,狩野探幽(1602~74)作の36人の詩人の像を掲げ詩仙堂と号した。この石標は詩仙堂を示すものである。
所在地 左京区一乗寺門口町(詩仙堂前)
位置座標 北緯35度02分40.6秒/東経135度47分46.3秒(世界測地系)
建立年 1919年
建立者
寸 法 高98×幅26×奥行16cm
碑 文
[西]
石川丈山翁旧跡
[東]
大正八年十二月建之
調 査 2002年3月8日 (「SA063 石川丈山翁旧跡 – 京都市」より)]
詩仙堂境内図(「詩仙堂 丈山寺 Shisendo Jyozanji Temple 天空仙人の神社仏閣 …」より)
詩仙堂資料リンク
「都名所図会」・巻之三 左青龍再刻 詩仙堂、巻之三 左青龍再刻 詩仙堂解説
詩仙堂(拡大図)
[図会左ページ上に詩仙堂、そこの左下に 八大天王 (天王社)、右下に北山御坊が描かれています。]
詩仙堂のストリートビューで、カメラ南南西方向が詩仙堂山門です。また、カメラ東北東方向に石川丈山翁旧跡碑があります。
老梅関前のストリートビューです。
嘯月楼前のストリートビューです。
詩仙堂内拝観入り口のストリートビューです。
詩仙堂仏間のストリートビューです。
詩仙堂詩仙の間(四畳半)のストリートビューです。
詩仙堂書院(六畳と八畳)のストリートビューです。