安祥寺

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    安祥寺
    [安祥寺(あんしょうじ)は京都市山科区にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は吉祥山、本尊十一面観音開山恵運。朝廷縁の定額寺の一つ。
    嘉祥元年(848年)、仁明天皇女御文徳天皇の母・藤原順子の発願により、入唐僧・恵運によって創建された。天皇の母に関係した寺であることから斉衡2年(855年)に定額寺となる。 『延喜式』によると順子の陵は山科にあるとされ、この寺との深い関係がうかがえる。
    安祥寺には醍醐寺同様、裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり、その後恵運に帰依した順子によって下寺が建立されたという説が有力である。
    恵運が貞観9年(867年)に作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」(現在東寺蔵)によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万平方メートルの寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされる。
    しかし、順子が死去したあとは朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』ではすでに上寺に行く道が非常に荒れていることが記述されている。平安時代後期にこの寺に入った宗意は下寺の復興をはかる。その後、上寺の方は延文年間まではかろうじて存続していたようだが、他の京都の多くの寺同様応仁の乱により、上寺・下寺共に完全に廃寺となる。
    江戸時代に残った寺宝を元に現在地に移転して再建されるが、上寺の方は再建されず廃絶した。このときには高野山宝生院兼帯所となる。さらに、寺領のほとんどを寺の維持のために毘沙門堂門跡に売却、寺の規模は大幅に縮小される。江戸時代においても何回も火災に遭い、明治39年には多宝塔を焼失、以後再建されていない。
    現在は江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂のみが残る。
    文化財
    ●木造五智如来坐像(重要文化財) – 京都国立博物館に寄託。大日如来を中心とする金剛界の五仏で、安祥寺創建時の制作と推定される。明治39年(1906年)に焼けた多宝塔に安置されていたが、当時から京都国立博物館に寄託されていて難を逃れる。
    ●木造十一面観音立像(重要文化財) – 本堂安置
    ●四天王像 – 本堂安置
    地蔵菩薩像 – 地蔵堂安置
    ●蟠龍石柱 – 唐時代。京都国立博物館に寄託。
    なお、東寺観智院にある五大虚空蔵菩薩像(唐時代、重要文化財)はもと安祥寺にあったもので、恵運が唐から将来した仏像である。
    安祥寺本堂・wikipedia-photo

      (wikipedia・安祥寺_(京都市)より)]

    安祥寺ホームページ

    安祥寺資料リンク
    拾遺都名所図会」・「巻之二 左青龍尾 安祥寺」、「巻之二 左青龍尾 安祥寺解説
    安祥寺(拡大図)

    伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [編画] ; [秋里湘夕] [撰]」・「安祥寺」(1-21)、「安祥寺解説」(1-20・左ページ中程から)

    [安祥寺
    伊勢物語
    むかし田村の帝と申す みかどおはしましける。其時の女御たかきこと申 みまそかりけり。それ失給ひて安祥寺にて みわさしける人々さゝげもの奉りけり たてまつりあつめたるもの子捧げばかりあり そこばくのさゝげものを木の枝に付て 堂の前に立たれば 山もさらに堂の前に動き出たるやうに 見へける 中略 けふのみわざとを題にて 春の心ばへある歌奉らせ給ふ 右のむまのかみなりけるおきなめはたがひながらよみける
    山のみな うつりてけふに あふことは
       春のわかれを とふとなるべし
     右田村帝の文徳天皇の事 むまのかみとは業平の事也  (「伊勢参宮名所図会」より)]

    安祥寺 – Google Map 画像リンク」、「安祥寺大師堂 – Google Map 画像リンク」、「安祥寺本堂 – Google Map 画像リンク

    カメラ北北東方向、柵右が薬医門、正面突き当りが安祥寺観音堂(本堂)になります。

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