吉田神社

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    吉田神社
    [貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。
    鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 – 1487年)には吉田兼倶吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16年(1484年)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。吉田家は全国の神社の神職の任免権などを持ち、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。
    境内図

    主な祭事
    ●節分大祭(2月2日 – 4日) – 関連リンク「吉田神社 節分祭
    ●例祭(4月18日)
    斎場所大元宮・wikipedia-photo、節分大祭・wikipedia-photo  (wikipedia・吉田神社より)]

    吉田神社ホームページ

    吉田神社資料リンク
    都名所図会」・「巻之三 左青龍再刻 神楽岡吉田社 (吉田神社)」[図会の解釈お勧めサイト]、 「巻之三 左青龍再刻 吉田宮斎場所 (吉田神社)解説
    神楽岡吉田社 (吉田神社)(拡大図)

    拾遺都名所図会」・「巻之二 左青龍尾 吉田春日社 (春日社)
    吉田春日社 (春日社)(拡大図)

    [図会右ページ上に吉田春日社 (春日社)、その下参道口に新長谷寺が描かれています。

    都林泉名勝図会」・「巻之二 吉田山遊宴

    花洛名勝図会」・「東山之部 四 神楽岡斎場所 (卜部家斎場)」、「東山之部 四 春日社」、「東山之部 四 卜部家斎場所 (卜部家斎場)解説
    神楽岡斎場所 (卜部家斎場)(拡大図)

    春日社(拡大図)

    [幕末元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」。 吉田神社を取り上げた部分の「其(その)二」として、「春日社/新長谷寺」を描いています。春日社は、画面左上隅にあります。吉田神社の本宮ですね。右隣には、摂社の若宮社もあります。こちらについては、問題はないのです。問題なのは、もうひとつの「新長谷寺」。画面左下に描かれています。吉田神社へ行くには、東一条の交差点から、京都大学正門前を通って行きます。 大きな鳥居があり、砂利が敷かれた参道を歩いて境内へ。これが上図の「表参道」です。手水舎の先に石段があって、それを上ると、左に本宮(先ほどの春日社)があります。また、右(南)のエリアには大元宮が鎮座。本宮と大元宮は、山道で結ばれており、途中に菓祖神社や山蔭神社といった戦後鎮座した小祠があります。だいたいこんな配置が、現在の吉田神社。もちろん、新長谷寺というお寺はありません。もうお分かりかも知れません。神社の歴史では、明治維新後の廃仏毀釈で、境内にあったお寺的な要素(神宮寺など)は、取り払われてしまいました。  (「吉田神社の境内には、奈良・長谷寺の観音さまを写した“新”長谷寺があった」より)]

    都名所画譜」・「巻之下 吉田社 (吉田神社)

    年中行事大成. 巻之1-4 / 速水春暁斎 画図」・「日待遊興之図」(1-40)、「日待解説・右ページ中程」(1-44)

    [日待 – 日祭りのことをいう。終夜寝ずに日の出を待って拝する。一般には1、5、9、10月の吉日を選んで行う。正月は3日、13日、
    17日夜、23日夜、27日夜などを選んで行われる。また京都の吉田卜部家では15日に禁裏の日待ちを修した。家の主人は斎戒沐浴して眠らず、親戚、知人などが集まりさまざま遊興、飲食をして日の出を待つ。  (「季語・日待」より)]
    夏越祓之図」(6-35)

    [大祓は民間では、毎年の犯した罪や穢れを除き去るための除災行事として定着した。民間の場合、6月のものは「夏越の祓」(なごしのはらえ)、12月のものは「年越の祓」(としこしのはらえ)と呼び分けられる。夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。参道の鳥居や笹の葉を建てて注連縄を張った結界内にで編んだ直径数 m ほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うという儀式である。かつては茅の輪の小さいものを腰につけたり首にかけたりしたとされる。これは、『釈日本紀逸文の『備後国風土記』に記されている疫隈国、素盞嗚神社蘇民将来伝説に由来するもので、武塔神の指示により茅の輪を腰につけたところ災厄から免れ、武塔神は自らを速須佐雄と名乗り去っていったと書かれている。  (wikipedia・大祓より)]

    国立国会図書館デジタル化資料 – 浪花百景付都名所」 – 「都名所之内 吉田山神楽岡

    吉田神社 – Google Map 画像リンク

    カメラ東方向が吉田神社一の鳥居です。

    カメラ北北東方向が三の鳥居で、その向こうに舞殿があります。

    カメラ位置は神楽殿前で、カメラ西北西方向が舞殿、その奥が社務所、カメラ北方向が拝殿です。

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