山ばな平八茶屋

マーカーは山ばな平八茶屋です。

山ばな平八茶屋
[推薦理由(抜粋)
 約200年以上経つ母屋は商家造りで,庭は昭和初期の造り。陰陽を配置した庭は,四季折々の花がその庭を満たし,季節を存分に感じることが出来る。
認定番号
 第7号
認定理由
 瓦葺き入母屋平入木造2階建てで,1階には糸屋格子や米屋格子が並び床几がつき,2階には虫籠窓欄干手摺がつき,漆喰仕上げと木部はベンガラが塗られている。街道沿いに立地する町家の外観意匠の特徴をよく残しており,若狭街道の通り景観の形成に重要である。  (「22.山ばな平八茶屋 – 京都を彩る建物や庭園 京都市文化市民局」より)]

[四百年の歴史
勝林院本堂屋根裏から出てきた棟札には、当家が安永 6年(1777年)から 3年の間、本堂再建のための資材置き場として土地を寄進するという内容が記されておりました。逆算すると、ちょうど10代目当主の頃であったように思われます。
●約200年前の大火事により母屋は全焼いたしました。寛政 9年(1797年)母屋再建のため奉行所に出された申請書が、今も当家に残っております。建築様式は、四つ目建ちの商家造りで、当時の代表的な建物となっております。今なお母屋として使っております。
●春 4月の壬生狂言には『山端とろろ』という演目があります。洛内にすむ富豪が伴を連れて花見のために当家を訪れて1泊、その夜強盗が押し入り、下男がとろろのすりこ木で渡り合ううち、とろろの鉢がひっくり返り、強盗は足を滑らせて捕まってしまうという滑稽なお話です。
江戸時代後期の儒学者、頼山陽は、京都に書斎『山紫水明処』を営み、文人と交わっておりました。修史に関心が深く、詩文に優れ、書も達者でございました。その書物『山陽詩鈔』という漢詩の中で、山端に遊ぶという題で紹介されております。
幕末の頃には、岩倉に隠棲した岩倉具視を取り巻いて幾多の暗闘が展開されました。当家も勤王志士の会合場として睨まれ、新撰組に嫌がらせを受けたこともございました。今もなお、母屋の入口には、そのときの刀傷が残っております。
●文学に当家の名が登場するのは、夏目漱石の『虞美人草』。徳富蘆花の『思い出の記』にも当家の名が記されております。  (「山ばな平八茶屋 – 四百年の歴史」より)]

山ばな平八茶屋 (やまばなへいはちぢゃや) – 修学院/京料理 [食べログ]

拾遺都名所図会」・巻之二 左青龍尾 山端巻之二 左青龍尾 山端解説
山端(拡大図)

[山端
光武帝(くはうぶてい)は麦飯を以て飢を凌ぎ、後漢の社稷を剏め給ひけり。ここも麦飯を常に名物とす。是もかの目出度ためしによる物ならんか。]

山ばな 平八茶屋 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は若狭街道(鯖街道)で、カメラ西北西方向が山ばな平八茶屋です。

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