延暦寺(東塔・根本中堂)

マーカーは東塔・根本中堂です。

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延暦寺
[延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧侶最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗本山寺院である。住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁円珍融通念仏宗の開祖良忍浄土宗の開祖法然浄土真宗の開祖親鸞臨済宗の開祖栄西曹洞宗の開祖道元日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコ世界遺産古都京都の文化財として登録されている。
また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。  (wikipedia・延暦寺より)]

延暦寺(東塔・根本中堂)
[最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。1954年(昭和28年)に国宝に指定された。入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築である。土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏薬師如来立像を安置する(開創1,200年記念の1988年に開扉されたことがある)。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている。嘉吉3年(1443年)に南朝復興を目指す後南朝日野氏などが京都御所から三種の神器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味は根本中堂に立て篭もり、朝廷(後花園天皇)から追討令が出たことにより室町幕府軍や山徒により討たれる。
延暦寺(東塔・根本中堂) – 回廊(重要文化財)と中門、根本中堂を見る。・wikipedia-photo

根本中堂への参道パノラマ・wikipedia-photo

  
回廊(重要文化財)と中門・wikipedia-photo

根本中堂回廊(重要文化財)と中門のパノラマ・wikipedia-photo

  
根本中堂正面・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、延暦寺(東塔・根本中堂)の画像またはその他のファイルが含まれています。  (wikipedia・延暦寺東塔より)]

グーグル・アート・プロジェクト – World Wonders – 「古都京都の文化財:延暦寺

天台宗総本山 比叡山延暦寺ホームページ」 – 「根本中堂AR・VR | 国宝根本中堂大改修 | 天台宗総本山 比叡山 …」 – 「境内案内

延暦寺東塔境内図(「オープンストリートマップ」より。)

  
【今しか見られない!60年ぶりの大改修】比叡山延暦寺の根本中堂

延暦寺資料リンク
都名所図会データベース – 日本文化研究センター – 都名所図会」・「比叡山延暦寺 (延暦寺)一枚目」(3-83)、「 比叡山延暦寺 (延暦寺)二枚目」(3-84)、「比叡山延暦寺一乗止観院 (延暦寺) 解説」(3-38)
比叡山延暦寺 (延暦寺)一枚目(拡大図)

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「比叡山 四明嶽」、「比叡山-2

延暦寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が根本中堂碑で、碑左石段先に根本中堂があります。また、カメラ南東方向に万拝堂と一隅会館(無料休憩所)があります。

カメラ西南西方向が東塔・根本中堂です。

[最澄
最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。20歳の延暦4年(786年)、奈良東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。
延暦7年(789年)、最澄は三輪山より大物主神分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
延暦21年(803年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期海外研修生)として、に渡航することが認められ。延暦23年(805年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師よりを学んでいる。このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。

大乗戒壇の設立
延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。
最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。
大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可された。  (wikipedia・延暦寺より)]

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