土佐藩山内家白川屋敷跡

マーカーは京都大学吉田キャンパスの「北部キャンパス」です。

白川土佐藩邸跡
幕末の京大キャンパス
[嘉永6年(1853)にマシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国黒船艦隊浦賀に来航したことにより、日本は激動の時代を迎えた。目前の脅威として突然現れた「異国」とどのようにつきあっていくか、また、異国船の来襲により動揺する日本をどのようにまとめていくかを決める際に、朝廷の所在した京都は、政治の中心として返り咲き、日本中からの注目を集めることとなった。
とくに、徳川家茂が将軍としては約 200 年ぶりに上洛した文久3年(1863)頃になると、諸藩が多数の藩士を京都に集結させた。京都に藩邸をもっていなかった藩だけでなく、京市中の藩邸では藩士を収容するための十分な面積を確保できないと考えた多くの藩が、市中を離れた地域にあらたな藩邸を建てることとなった。
慶応4年(1868)に描かれた京都の絵図である「改正京町御絵図細見大成」をみると、当時の京市中およびその周辺にどのような建物が並んでいたかがわかる。絵図の中で、現在の京都大学吉田キャンパスがある鴨川の東の吉田付近に目を向けると、通りをはさんで南には「尾張屋敷」(尾張藩邸)が、そして北には「土州屋敷」(土佐藩邸)が描かれる。これらの藩邸は、幕末より前の時代に描かれた絵図にはみられないため、幕末になってから建てられたものである。
土佐藩邸跡
「改正京町御絵図細見大成」をみると、現在の京都大学北部構内にあたる位置には「土州屋敷」が描かれる。土佐藩白川邸である。
この建物はもともとは、幕府による大坂湾警衛の命令に従い、文久元年(1861)に住吉(現在の大阪市住吉区東粉浜2丁目)に建てられた土佐藩の陣屋であった。その造営にあたっては、木材や石材、人夫などが土佐から運搬・徴発されたことが判明している。しかし、土佐藩は慶応2年(1866)に大坂湾岸の警衛を免除されたため、不要となった住吉陣屋は京都へ移築され、白川邸となった。慶応3年7月末以降、白川邸は中岡慎太郎を首領とする陸援隊の屯所となったことが知られるが、程なくして慎太郎は暗殺されており、その拠点としては長く続かなかったと推断される。
2015 年に京都大学熊野構内でおこなわれた発掘調査で、幕末頃の遺構がみつかった。それは、堀状の溝を埋めて構築された瓦積の遺構である。「改正京町御絵図細見大成」には、熊野神社の南西にあたるこの地点に「阿州屋敷」、すなわち阿波徳島藩邸が描かれる。  (「-激動の幕末と京大キャンパス-」より)]

[幕府より土佐藩へ住吉に陣屋地があたえられたのは万延元(1860)年 9 月であり、その場所は摂州住吉郡の中在家村と今在家村の入会地で、 1 万 80 坪弱のひろさであったことが知られる。また,大坂湾のなかでも、木津川の川口の守衛を課せられたことがおさえられる。
 住吉陣屋は、慶応 2 年の冬ごろに解体されるにいたった。その理由としては,同年 2 月に幕府から木津川の川尻の警備を免除されたことがあげられる。つまりは、住吉陣屋は突如いらなくなって、その結果、建物をばらして白川村へと運び込むという措置がとられたと推量される。
 かりにそうだとすると、白川村の土地を土佐藩が買いとった時期は、慶応 2 年 8 月以前にさかのぼり、しばらくのあいだ放擲されていた可能性も浮上しよう。こうした点はさておき、住吉陣屋の坪数を前提にすると、白川邸の面積は、少なくとも 1 万坪はあったのではないかと想察される。
 かくして設置された白川邸は、のちに陸援隊の屯所となった。資料によると、佐佐木高行の主導により、白川邸に浪人たちを住まわせるよう決したことが知られる。その過程をややくわしくみるに、石川誠之助、すなわち中岡慎太郎は、対馬の浪人である橘某が幕府によって捕捉されたのを機縁にして、ちらばって投宿している同志である浪人らを守るために、白川邸にあつめおくよう内密に願い出た。佐佐木高行は、それをうけて、自藩および他藩での浪人にたいする忌避は承知しつつも、上司である参政の由比猪内の賛同をえたうえで、早急に中岡慎太郎の求めに応じたとある。
 慎太郎の日記・『行行筆記』をひもとくに、7 月 27 日条に「白川邸定る」、同月 29 日条に「朝白川邸に移る。著到十一人。是より追々著」としたためられている。つまるところ、佐佐木高行の尽力によって、過去の藩籍を異にする者などが白川邸にまとめられ、陸援隊が組織されることになった。  (「土佐藩白川邸・尾張藩吉田邸にまつわる覚書」より)]

陸援隊
[陸援隊(りくえんたい)は、江戸時代末期(幕末)の1867年(慶応3年)6月27日、薩土討幕の密約に基づき土佐藩出身の中岡慎太郎によって組織され、活動した武力討幕のための武力集団(浪士隊)である。
海援隊に続き、中岡の同志・坂本龍馬との協議により発足する。隊長は中岡で、京都を本拠とする。隊員は尊皇攘夷の思想を持つ脱藩浪士などが集められ、総員は70名以上であった。
薩摩藩からは洋式軍学者鈴木武五郎が派遣され、支援隊の十津川郷士ら50名と共に、洋式調練を行った。中岡、坂本が京都河原町(近江屋)で暗殺された後は、同志の田中光顕谷干城らが指導し、官軍挙兵後は高野山紀州藩兵を牽制する等した。御一新により御親兵に吸収された。
陸援隊の内部には新選組など幕府方の密偵が入り込んでいたといわれる。食事は河原町の土佐藩邸から支給された。  (wikipedia・陸援隊より)]

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図四つ切右上に土州屋敷(土佐藩山内家白川屋敷跡)、尾張屋敷(尾張藩徳川家吉田屋敷跡)が描かれ、その下方向御操練場(会津藩松平(保科)家岡崎屋敷・調練場)下に阿州屋敷(徳島藩蜂須賀家岡崎屋敷跡)が描かれています。また、御操練場、阿州屋敷間の道右方向、黒谷左下にも土州(土佐藩山内家岡崎屋敷跡)と記述されています。)

国際日本文化研究センター – 都15号 假製二万分一 京都(明治22・1889年)」(地図中央右端・知恩寺の右、後二条院天皇陵までの中間が土佐藩邸跡、知恩寺下区画の左半分が尾張藩邸跡になると思います。)

国際日本文化研究センター – 琵琶湖疎水地圖(明治23・1890年)」[地図四つ切左上・百万遍下の区画が尾張藩邸跡で、百万遍右が土佐藩邸跡になります。また、そこの下方向琵琶湖疎水幹線計画路線の閘門(夷川発電所)の周辺が徳島藩邸跡になると思います。]

カメラ北北東方向が白川土佐藩邸があった京都大学吉田キャンパスの「北部キャンパス」です。

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