白河北殿址碑(保元の乱)

マーカーは白河北殿址碑です。

白河北殿址
[白河北殿は,白河上皇(1053~1129)の院御所で,南本御所に対して北殿や北新御所と称された。その後は上西門院(1126~89)の御所となっていたが,保元元(1156)年7月に崇徳上皇(1119~64)が移り住み,保元の乱の勃発とともに平清盛(1118~81)らの軍勢によって焼失した。この石標はその御所跡を示すものである。
所在地 左京区丸太町通東大路西入南側(京都大学熊野寮内)
位置座標 北緯35度01分02.6秒/東経135度46分32.3秒(世界測地系)
建立年 1939年  (「白河北殿址SA017」より)]

カメラ東方向・京都大学熊野寮敷地の角・金網向こうに「白河北殿跡」の碑が建っています。

保元の乱(1156年)
[保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。

後白河天皇派(藤原忠通・源義朝・平清盛・源頼政・源重成・平信兼)
崇徳上皇派(藤原頼長・源為義・平忠正・源為朝) 

天皇の継承
鳥羽天皇(在任1107年 ~ 1123年[1156年死去]) – 崇徳天皇[鳥羽天皇(父)-待賢門院(母)(生1119年)](在任1123年 ~ 1142年) – 近衛天皇[鳥羽天皇(父)-美福門院(母)(生1139年)](在任1142年 ~ 1155年死去) – 後白河天皇[鳥羽天皇(父)-待賢門院(母)(生1127年)](在任1155年 ~ 1158年) – 二条天皇[後白河天皇(父)-源懿子(母)(生1143年)](在任1158年 ~ 1165年)

保元の乱までの経過

1.近衛天皇即位(待賢門院と美福門院の対立)
永治元年(1141年)12月7日、鳥羽法皇藤原璋子(待賢門院)との子である崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。
翌年には得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳の外戚である閑院流の勢力は後退した。中御門流村上源氏公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。

2.摂関家の内紛(関白の藤原忠通と内覧の藤原頼長の対立)
白河院政下で逼塞していた摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の娘・藤原泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の藤原頼長を養子に迎えた。しかし康治2年(1143年)に実子藤原基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになる。
久安6年(1150年)正月4日、近衛天皇は元服の式を挙げ、同月10日に頼長の養女・藤原多子入内、19日に女御となる。しかし、2月になると忠通は藤原伊通の娘・藤原呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上する。呈子は美福門院の養女であり、忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる。鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不可能となった。
同年9月、激怒した忠実は摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶する。鳥羽法皇は先の入内問題と同じく曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で頼長に内覧宣旨を下す。ここに関白と内覧が並立する異常事態となった。

3.近衛天皇崩御(後白河天皇即位)
仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一皇子・重仁親王が有力だったが、忠通は美福門院の養子・守仁親王(二条天皇)への譲位を法皇に奏上する。この提案は一旦は拒絶されたものの、美福門院と忠通は崇徳の院政を阻止するために守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。
久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・暲子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王(後白河天皇)が立太子しないまま29歳で即位することになった。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。

4.鳥羽法皇崩御
新体制の基盤がまだ固まらない保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れた。法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなる。『愚管抄』によれば政情不安を危惧した藤原宗能が今後の対応策を促したのに対して、病床の鳥羽法皇は源為義平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のいる鳥羽殿源光保平盛兼を中心とする有力北面武士、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏源義朝源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた(『兵範記』7月5日条)。それから1ヶ月後、7月2日申の刻(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御した。

5.保元の乱
鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、命により検非違使平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めた。上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の藤原忠直・山田是行が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。為朝の強弓は後年、負傷した大庭景義が「我が朝無双の弓矢の達者なり」(『吾妻鏡建久2年(1191年)8月1条)と賞賛しており、事実であったことが分かる。攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として源頼政源重成平信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。

保元の乱後
この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。
乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持するグループ(後白河院政派)と二条天皇を支持するグループ(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。
『保元・平治の乱合戦図屏風』「白河殿夜討」・wikipedia-photo、『保元・平治合戦図屏風』(神泉苑蔵)屋形から出る黒い鎧の武者が平清盛・wikipedia-photo  (wikipedia-保元の乱より)]

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