補陀洛寺(小町寺)

マーカーは補陀洛寺(小町寺)です。

補陀洛寺(小町寺)
[小野小町終焉の地と伝える。959年(天徳3)の創建。小さな本堂平安時代作の阿弥陀三尊像と並び小町老衰像を安置。境内に小町供養塔、なきがらから生えたというススキ、姿見の井戸などの遺跡がある。1984年(昭和59)に楊柳観音堂が完成。天台宗。建立:959(天徳3)年  (「京都観光Navi:補陀洛寺」より)]

普陀洛寺資料リンク
都名所図会」・「巻之六 後玄武再刻 市原小野寺 (普陀洛寺)」、「巻之六 後玄武再刻 市原の普陀洛寺 (普陀洛寺)解説
市原小野寺 (普陀洛寺)(拡大図)

花洛名勝図会」・「東山之部 六 小町寺
小町寺(拡大図)

補陀洛寺 (小町寺) – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が補陀洛寺(小町寺)の石碑がありその前歩道が参道になります。

小野小町
[小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙三十六歌仙女房三十六歌仙の一人。
小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。故に、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。
系図集『尊卑分脈』によれば小野篁の息子である出羽国郡司・小野良真の娘とされている。また、数々の資料や諸説から生没年は天長2年(825年) – 昌泰3年(900年)の頃と考えられている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。そればかりか、小野篁の生没年(延暦21年(802年) – 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。
血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在が疑わしい。さらには、仁明天皇更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている。
また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の”町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。
京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。後述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。それにちなんで、毎年「ミス小野小町コンテスト」が開かれている。
小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。 平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。
京都市左京区静市市原町にある小町寺(補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。  (wikipedia・小野小町より)]

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

*