伏見人形 丹嘉

マーカーは伏見人形 丹嘉です。

伏見人形 丹嘉
[寛延年間(1748~51)創業、伏見街道に面して店を構える。全国各地にある土人形の祖ともいわれる伏見人形の窯元。明治の頃には4~50軒あった窯元も次第に数が減り、現在は丹嘉竈元一軒のみとなる。  (「新しいものは作りません。大西 重太郎 丹嘉竈元 – 京を語る|情報誌」より)]

[京都を彩る建物や庭園
推薦理由(抜粋)
 京の町にあって親しみを感じる店構え。ガラス越しに見えるお人形は愛らしく,屋根には鍾馗さんならぬ,えびす様や福禄寿,金太郎さんが並ぶ。
認定番号
 第73号
認定理由
 丹嘉は,寛延年間創業で,現在まで続く唯一の伏見人形の窯元である。伏見街道に面した敷地には,主屋と2つの蔵,作業場などが配される。主屋は,木造つし2階建,切妻造瓦葺で,大屋根には煙出しを備え,虫籠窓の前には瓦人形が飾られている。主屋西側に位置する庭には,松,立石や燈籠が据えられ,採光や通風,観賞などの用途を備えた町家に見られる庭の特徴を残している。丹嘉は,現在も,製造と販売が行われ,伏見人形の歴史を継承する建物として貴重であり,伏見街道のかつての風情を伝える店構えも地域の景観を構成する重要な要素となっている。  (「丹嘉 – 京都を彩る建物や庭園」より)]

伏見人形
[●稲荷山の土に物を利する霊験があるとされ乞うて持ち帰る風習があり、伏見稲荷周辺の住民がその土を丸めて粒に作り店に出して売るようになった。これを粒粒(つぼつぼ)と言った。何時の頃からか中をからに盆の様にした物を田豊(でんぽう)と称し次第に器皿の形となり土鈴をはじめ、牛・馬・鳥の姿をした土産物に変化して子供の玩具として喜ばれた。これらの土産物は人物や動物からさまざまに精巧な人形となって世に珍重されるようになった。深草の西部に瓦焼きがあるが、江戸時代に入り経済生活の安定や稲荷社信仰の発達から、稲荷社参詣の土産品の量産が必要とされ、瓦焼の手法である”型”の使用が始まった。
●伏見人形は別名、稲荷人形、深草人形、伏見焼、深草焼、稲荷焼ともいわれ、日本各地の土人形・郷土玩具の原型となった。
●伏見稲荷の南に当り良土を産する深草の地で、土師器の流れを伝え、建保2年(1214)の「東北院職人歌合」にも詠まれたように”かわらけ”が造られていた。室町時代に入るとともに、それに加えて火鉢、小壷などの日用品や茶器なども併せ作られるようになった。  (wikipedia・土人形 – 伏見人形より)]

花洛名勝図会」・東山之部 八 伏見街道(図会解釈お勧めサイト)
伏見街道(拡大図)

[其二・伏見街道群衆之図
知紀・いなり山花もかざさぬけふなれどゆきかふ袖は春めきにけり
はつ午や尾の有さうな美人達・虚白]

日本山海名物図会」(巻の四 – 9ページ・京深草陶器)

伏見人形丹嘉 – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向が伏見人形 丹嘉です。

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