六道珍皇寺(小野篁邸跡)

    上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。

    六道珍皇寺
    [六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7-10日の六道詣り、小野篁冥界に通ったと伝わる井戸(寺宝展等の特別公開時を除き非公開)で知られる。通称六道さん。この付近が「六道の辻」であるとされる。
    この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。「六道の辻」は五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近とされている。
    創建は延暦年間(782年〜805年)とされ、開基は、奈良大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊とされるが、異説として空海(「叡山記録」ほか)や小野篁(伊呂波字類抄・今昔物語集)などとする説のほか、かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身であるともいう。
    鎌倉時代までは東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有したが、南北朝時代以降、寺領の多くが建仁寺の所有に転じたことと戦乱により衰退し、中世後期の寺史はあきらかではない。貞治3年(1364年)、建仁寺から聞渓良聡が入寺して再興、この際に臨済宗に改められた。明治に入り一時建仁寺に併合された時期もあったが、1910年(明治43年)に独立した。
    六道詣り
    お盆に祖先の霊を迎えに詣る。参道でコウヤマキを購入、水塔婆に戒名を書いて頂き、清め、迎え鐘を衝く。
    山門、六道の辻の碑

    境内

    小野篁冥土通いの井戸(入口、左奥)

    「門、六道の辻の碑」・wikipedia-photo、「三界万霊十方至聖」の石塔婆・wikipedia-photo、地蔵堂・wikipedia-photo、庭園・wikipedia-photo、「鐘楼、迎鐘」・wikipedia-photo、「珍皇寺、小野篁卿旧跡、篁が夜な夜な珍皇寺門前の六道の辻から冥府に通ったという伝説がある、京都市東山区」・wikipedia-photo、「六道の辻、珍皇寺の門前、珍皇寺ゆかりの小野篁が冥府との往復を果たしたという伝説がある、京都市東山区」・wikipedia-photo  (wikipedia・六道珍皇寺より)]

    大椿山 六道珍皇寺 公式サイト」-「春の特別拝観 Ⅱ期」 、「精霊迎え 六道まいり

    六道珍皇寺(小野篁邸跡)資料リンク
    都名所図会」・「巻之二 平安城再刻 六道珍皇寺 (珍皇寺)・六波羅密寺」、「巻之二 平安城再刻 珍皇寺解説
    六道珍皇寺 (珍皇寺)・六波羅密寺(拡大図)

    [図会左ページに六波羅密寺、右ページに六道珍皇寺が描かれています。]

    花洛名勝図会」・「東山之部 五 六道珍皇寺 (珍皇寺)」、「東山之部 五 六道珍皇寺 (珍皇寺)解説

    六道の辻石碑 六道珍皇寺 – Google Map 画像リンク」、「閻魔堂(篁堂) – Google Map 画像リンク」、「六道珍皇寺 鐘楼 (迎え鐘) – Google Map 画像リンク」、「六道珍皇寺 – Google Map 画像リンク」、「小野篁卿 冥土通いの井戸 – Google Map 画像リンク

    六道珍皇寺のストリートビューで、カメラ北方向が六道珍皇寺山門で、カメラ西北西方向に小野篁邸跡の碑があります。

    六道珍皇寺のストリートビューで、カメラ北方向が六道珍皇寺本堂、カメラ南西方向に多くの石地蔵が安置されています。

    小野篁
    [小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) – 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の官人、学者、歌人。参議小野岑守の子。官位従三位・参議。異名は「野相公」「野宰相」、その反骨精神から「野狂」とも。
    小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいる。
    若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し学業に励んだとされる。弘仁13年(822年)文章生に補せられ、大内記蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下に叙せられた。翌天長10年に仁明天皇が即位し、淳和上皇の皇子恒貞親王皇太子になると、東宮学士に任ぜられた。承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使藤原常嗣の専断に憤慨しいさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否(遣唐使は篁を残して同年6月渡海)する。さらに、「西道謡」という朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流に処された。のち承和7年(840年)2月許されて帰京・本位に復す。その後も蔵人頭左中弁と要職を歴任。承和14年(847年)には参議として公卿に列した。仁寿2年12月(853年1月)従三位に叙せられるがまもなく薨じた。
    人物
    令義解』の編纂にも深く関与する等法理に明るく、政務能力に優れていた。一方で漢詩文では平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』や『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。また和歌にも秀で、『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に18首が入首している。
    逸話と伝説
    ●篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都嵯峨の福生寺(生の六道、明治期に廃寺)と京都東山の六道珍皇寺(死の六道)にあったとされ、また六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
    京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるが、これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。
    ●『今昔物語集』「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」によると、病死して閻魔庁に引据えられた藤原良相が篁の執成しによって蘇生したという逸話が見える。
    ●『宇治拾遺物語』などには、嵯峨天皇のころ、「無悪善」という落書きを「悪(さが(嵯峨のこと))無くば、善けん」(「悪なからば善からん」とも読める。いずれにせよ、「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意。)と読み、これが読めたのは篁自身が書いたからに違いないと立腹した嵯峨天皇は「『子』を十二個書いたものを読め」というなぞなぞを出したが、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いてみせ事なきを得た、という逸話も見える。
    ●まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白楽天の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。
    ●白楽天は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。
    小野篁像(『集古十種』より)・wikipedia-photo、小野篁(『前賢故実』より)・wikipedia-photo、小野篁(百人一首より)・wikipedia-photo、「珍皇寺、小野篁卿旧跡、篁の亡霊が,珍皇寺門前の六道の辻からに冥府に通ったという伝説がある」・wikipedia-photo、「小野篁が地獄と行き来したと言われている井戸、奥の右側、珍皇寺」・wikipedia-photo  (wikipedia-小野篁より)]

    Leave a Reply

    Your email address will not be published. Required fields are marked *

    *