圓徳院(挙白堂跡)

マーカーは圓徳院です。

圓徳院
[圓徳院(えんとくいん)は、京都市東山区にある高台寺臨済宗建仁寺派)の塔頭のひとつ。本尊は釈迦如来。名勝庭園と、豊臣秀吉の正室・高台院が晩年を過ごした寺として知られる。この寺は、備中国足守藩主で高台院の甥に当たる木下利房(1573年 – 1637年)が、伏見城の化粧殿を自らの邸に移して寺としたのに始まる。寺号の圓徳院は利房の法号「圓徳院殿半湖休鴎大居士」からとられたものである。なお、この寺に安置されている三面大黒天は秀吉の念持仏とされる。
長屋門

唐門・wikipedia-photo、方丈・wikipedia-photo、歌仙堂・wikipedia-photo、三面大黒天・wikipedia-photo
●北庭 – 北書院の東に位置する。賢庭が作庭した伏見城北政所化粧御殿の池泉回遊式庭園を移したものである。それに際し、敷地面積にあわせて枯池泉座視式に改められた。さらに小堀遠州により整えられた姿が現在に伝わっている。国指定の名勝。

●南庭 – 方丈の南西に位置する。森蘊の指導による徳村宗悦の作庭。  (wikipdia・圓徳院より)]

[木下長嘯子(勝俊)は、父・木下家定の死去後、高台院(北政所)の周旋によって遺領(備中国足守2万5,000石)は安堵され、その裁量に任されることになった。この際、徳川家康は遺領を勝俊と利房に分賜するとも定めていたが、高台院は寵愛する勝俊に遺領の全てを渡した。すると、所領を得られなくなった弟・利房は抗議して家康に泣きつき、約半年間、双方の使者が京都駿河を往復して争議となった。翌年9月、江戸幕府は分地の沙汰を犯して命に背いたという理由で、家定の遺領の全てを没収とした。これで再び勝俊は失領したが、利房も同じであり、代わりに遠縁にあたる浅野長晟が、足守藩を一時拝領して管理した。なお、利房は、大坂の陣で徳川方として参戦して軍功を挙げ、それによって晴れて父の遺領である足守藩の継承を認められている。
勝俊は剃髪して京都東山に隠棲し、高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営んで、長嘯子と号した。この隠棲地には「歌仙堂」と称する小閣があり、その2階には三十六歌仙図を掲げた。  (wikipedia・木下勝俊より)]

北政所化粧御殿跡
[豊臣秀吉(1536~98)の正室北政所(1548~1605)は,杉原定利の娘で通称をねねと伝える。秀吉没後京都に移ったが,伏見城の化粧御殿をこの地に移築して常住の場所とした。のち北政所に高台院の号が贈られ,徳川家康(1542~1616)の助力により高台寺を創建した。この石標は北政所化粧御殿の跡を示すものである。なお,円徳院は高台寺の塔頭。
所在地 東山区下河原町(円徳院前)
位置座標 北緯35度00分00.3秒/東経135度46分47.4秒(世界測地系)
建立年 1975年
建立者
寸 法 高101×幅16×奥行16cm
碑 文
[南]
国名勝指定 円徳院北庭
北政所化粧御殿跡
[北]
昭和五十年一月二十一日
志村琮山謹書
調 査 2002年4月4日  (「HI053 北政所化粧御殿跡 – 京都市」より)]

圓徳院公式ホームページ

法観寺資料リンク
拾遺都名所図会」・「巻之二 左青龍首 挙白堂旧跡」、「巻之二 左青龍首 挙白堂旧跡解説
挙白堂旧跡(拡大図)

[薄曇けだかき花の林かな 信徳
白藤の浪の底にも酢味噌かな 半時庵淡々]

圓徳院のストリートビューです。カメラ北西方向に北政所化粧御殿跡碑があります。

方丈玄関のストリートビューです。

方丈庭園のストリートビューです。

北書院から見た北庭のストリートビューです。

北書院出口前のストリートビュー

カメラ位置は掌美術館入り口前広場で、カメラ北西方向が三面大黒天で、カメラ北東方向が歌仙堂です。カメラ東南東方向が出口門(掌美術館入り口門)です。

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